梅雨が明けた。
グラウンドの白線が陽炎の向こうに滲んで、
空は真っ青で、どこまでも遠かった。
体育館の隣。
バスケ部とバレー部の声が交錯するその空間は、
夏の熱気と汗と夢で満たされていた。
羽春は、コートの端で息を整える。
顧問の笛が鳴り、ボールが弾む音が、まるで心臓の鼓動みたいに響いていた。
「……っ!」
ドリブルを止めて額の汗を拭うと、
視線の先に、いつものあの姿が見えた。
バレーボールを軽くトスして、
笑顔で後輩に指導している孝太の背中。
引退したはずなのに、
今でも練習を見に来て、ボールに触れている。
その姿が好きで、誇らしくて。
でも、同時に胸がざわつく。
その隣に、楓の姿があった。
バレーボールのマネージャーとして、汗を拭くタオルを差し出して笑っている。
彼女の髪が光を受けて揺れた。
その仕草があまりにも自然で、絵になるようで、
羽春は思わず目をそらした。
「……集中しなきゃ」
自分に言い聞かせて、ボールを拾い上げる。
でも、胸の中では別の声が囁く。
——どうして、隣にいるのが自分じゃないんだろう。
***
練習が終わると、部活の片づけを終えたあとに、
委員会の資料をまとめに行く。
廊下を歩いていると、ちょうど前を孝太と楓が並んで歩いていた。
手には書類と、部活動の報告書。
「先輩、それ私持ちます」
「いや、大丈夫。ありがとな」
「ふふ、佐倉先輩ってそういうとこ、頑固ですよね」
軽やかな笑い声。
それを後ろから聞いているだけで、胸の奥が痛む。
その笑い方が、どこか自分と違う世界の人みたいで。
羽春は、距離を取って歩いた。
二人の会話が聞こえないように、少しだけ歩調を緩める。
だけど、耳はどうしてもそっちを向いてしまう。
——あの人と話す時の声、少し柔らかい。
私と話す時より。
心のどこかでそう思ってしまう自分が嫌だった。
***
委員会室。
夕方、誰もいなくなった教室に、紙をめくる音だけが響く。
窓の外ではセミが鳴いていた。
「羽春、これ確認お願い」
顔を上げると、孝太が立っていた。
少し汗の残る髪が光を反射している。
楓の姿はなかった。
「……はい」
プリントを受け取ろうとした瞬間、
指先が少し触れた。
熱が伝わって、息が詰まる。
けれど、孝太はいつもと同じ顔をしていた。
何も変わらない。
だから、余計に切ない。
「最近、バスケ忙しそうだな」
「……はい。夏の大会が近くて」
「そうか。羽春なら大丈夫だよ」
たった一言。
それだけなのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
声が震えたのを誤魔化すように、ペンを握りしめた。
孝太は、少し迷うように口を開いた。
「……この前、楓がさ。羽春のプレー見て“かっこいい”って言ってたぞ」
「え?」
「『自分にあんな集中力ないから羨ましい』って。
ちゃんと見てる人は見てるんだなって思った」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
嬉しいはずなのに、
その“見てる人”が自分じゃないことが、たまらなく苦しい。
「……楓先輩、優しいですね」
「そうだな。けど、羽春の努力もちゃんと伝わってる」
孝太の笑顔が、
あの時の夏の光よりも眩しかった。
でも、その光は届かない。
あと一歩、手を伸ばせば届きそうなのに、
なぜかその一歩が踏み出せない。
「……佐倉先輩」
「ん?」
「もし……もしも、先輩が卒業しても、
私、委員会ちゃんと続けますね」
「そっか。嬉しいな。
頼もしい後輩がいてくれて、助かるよ」
“後輩”。
たったその一言で、
心のどこかが静かに崩れていった。
笑わなきゃ、って思うのに、
目の奥が熱くなって視界が滲む。
***
校舎を出ると、夕焼けが空を染めていた。
西の空が真っ赤に燃えて、
その光が羽春の頬を照らす。
ふと、風が吹いて、制服の袖が揺れた。
遠くからバレー部の笑い声が聞こえる。
その中に、楓の声も混じっていた。
——私、何やってるんだろう。
心の中で呟いて、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、孝太の横顔と、
あの日の「羽春」という呼び方。
“後輩”ではなく、“羽春”。
たったそれだけの違いなのに、
こんなにも距離がある。
羽春は空を見上げた。
少しずつ沈んでいく太陽の光が、
まるで誰かの想いみたいに儚く見えた。
——もしも、あの人の隣に立てる日が来るなら。
その時、ちゃんと伝えたい。
そう願いながら、
羽春は静かに拳を握った。
だけど、その願いが叶う頃には、
きっと夏も、終わってしまうのだろう。
グラウンドの白線が陽炎の向こうに滲んで、
空は真っ青で、どこまでも遠かった。
体育館の隣。
バスケ部とバレー部の声が交錯するその空間は、
夏の熱気と汗と夢で満たされていた。
羽春は、コートの端で息を整える。
顧問の笛が鳴り、ボールが弾む音が、まるで心臓の鼓動みたいに響いていた。
「……っ!」
ドリブルを止めて額の汗を拭うと、
視線の先に、いつものあの姿が見えた。
バレーボールを軽くトスして、
笑顔で後輩に指導している孝太の背中。
引退したはずなのに、
今でも練習を見に来て、ボールに触れている。
その姿が好きで、誇らしくて。
でも、同時に胸がざわつく。
その隣に、楓の姿があった。
バレーボールのマネージャーとして、汗を拭くタオルを差し出して笑っている。
彼女の髪が光を受けて揺れた。
その仕草があまりにも自然で、絵になるようで、
羽春は思わず目をそらした。
「……集中しなきゃ」
自分に言い聞かせて、ボールを拾い上げる。
でも、胸の中では別の声が囁く。
——どうして、隣にいるのが自分じゃないんだろう。
***
練習が終わると、部活の片づけを終えたあとに、
委員会の資料をまとめに行く。
廊下を歩いていると、ちょうど前を孝太と楓が並んで歩いていた。
手には書類と、部活動の報告書。
「先輩、それ私持ちます」
「いや、大丈夫。ありがとな」
「ふふ、佐倉先輩ってそういうとこ、頑固ですよね」
軽やかな笑い声。
それを後ろから聞いているだけで、胸の奥が痛む。
その笑い方が、どこか自分と違う世界の人みたいで。
羽春は、距離を取って歩いた。
二人の会話が聞こえないように、少しだけ歩調を緩める。
だけど、耳はどうしてもそっちを向いてしまう。
——あの人と話す時の声、少し柔らかい。
私と話す時より。
心のどこかでそう思ってしまう自分が嫌だった。
***
委員会室。
夕方、誰もいなくなった教室に、紙をめくる音だけが響く。
窓の外ではセミが鳴いていた。
「羽春、これ確認お願い」
顔を上げると、孝太が立っていた。
少し汗の残る髪が光を反射している。
楓の姿はなかった。
「……はい」
プリントを受け取ろうとした瞬間、
指先が少し触れた。
熱が伝わって、息が詰まる。
けれど、孝太はいつもと同じ顔をしていた。
何も変わらない。
だから、余計に切ない。
「最近、バスケ忙しそうだな」
「……はい。夏の大会が近くて」
「そうか。羽春なら大丈夫だよ」
たった一言。
それだけなのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
声が震えたのを誤魔化すように、ペンを握りしめた。
孝太は、少し迷うように口を開いた。
「……この前、楓がさ。羽春のプレー見て“かっこいい”って言ってたぞ」
「え?」
「『自分にあんな集中力ないから羨ましい』って。
ちゃんと見てる人は見てるんだなって思った」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
嬉しいはずなのに、
その“見てる人”が自分じゃないことが、たまらなく苦しい。
「……楓先輩、優しいですね」
「そうだな。けど、羽春の努力もちゃんと伝わってる」
孝太の笑顔が、
あの時の夏の光よりも眩しかった。
でも、その光は届かない。
あと一歩、手を伸ばせば届きそうなのに、
なぜかその一歩が踏み出せない。
「……佐倉先輩」
「ん?」
「もし……もしも、先輩が卒業しても、
私、委員会ちゃんと続けますね」
「そっか。嬉しいな。
頼もしい後輩がいてくれて、助かるよ」
“後輩”。
たったその一言で、
心のどこかが静かに崩れていった。
笑わなきゃ、って思うのに、
目の奥が熱くなって視界が滲む。
***
校舎を出ると、夕焼けが空を染めていた。
西の空が真っ赤に燃えて、
その光が羽春の頬を照らす。
ふと、風が吹いて、制服の袖が揺れた。
遠くからバレー部の笑い声が聞こえる。
その中に、楓の声も混じっていた。
——私、何やってるんだろう。
心の中で呟いて、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、孝太の横顔と、
あの日の「羽春」という呼び方。
“後輩”ではなく、“羽春”。
たったそれだけの違いなのに、
こんなにも距離がある。
羽春は空を見上げた。
少しずつ沈んでいく太陽の光が、
まるで誰かの想いみたいに儚く見えた。
——もしも、あの人の隣に立てる日が来るなら。
その時、ちゃんと伝えたい。
そう願いながら、
羽春は静かに拳を握った。
だけど、その願いが叶う頃には、
きっと夏も、終わってしまうのだろう。


