放課後の委員会室。
窓から差し込む光が、机の上の資料をやわらかく照らしていた。
季節は春から初夏へ。
陽射しが少し強くなって、空気の中に埃が舞っているのが見える。
「……この資料、もう一回確認してくれる?」
孝太がそう言って、羽春の机の上にプリントを置いた。
その瞬間、名前を呼ばれなくても、声の響きだけで胸が跳ねる。
何度も聞いた声なのに、聞くたびに新しい痛みと温かさを伴う。
「はい、わかりました」
ペンを持つ手が少し震える。
その小さな震えに、自分でも気づいてしまう。
孝太は少しの間、資料を見つめてから、穏やかな笑みを浮かべた。
「助かる。羽春はいつも丁寧だな」
その言葉に、心臓の奥がじんわりと熱を持つ。
“褒められる”だけのはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「そ、そんなことないです。
ただ、間違えるのが怖くて」
「そういうとこが真面目なんだよ」
軽い調子で言うその声が、やさしくて。
羽春は小さく笑ったけれど、胸の奥では違う何かが疼いていた。
***
そのとき、ドアの向こうから軽い足音がした。
「佐倉先輩、これ提出分で合ってますか?」
振り向くと、楓が立っていた。
黒髪をひとつに結んで、涼しげな目元。
その存在感だけで、空気が変わる。
「お、ありがとう。楓、助かる」
その“ありがとう”の響きが、さっきの「羽春」よりも少し柔らかく感じてしまった。
気のせいかもしれない。
でも、心の奥が静かにざわめいた。
「委員会の資料、私も見ますね」
楓が隣に腰を下ろした瞬間、
孝太と羽春の間にあった小さな距離が、目に見えるように遠ざかった。
プリントをめくる音、ボールペンが紙を滑る音。
沈黙の中で、羽春はただ、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
——なんで、こんなに苦しいの。
同じ部屋にいるのに、心は遠く離れていく。
その感覚に気づくたび、胸の奥が締めつけられる。
「……羽春?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
孝太の視線が、真正面からぶつかる。
「え、あ……はいっ」
「大丈夫? 顔、赤いよ」
「な、なんでもないです!」
慌てて否定する羽春を見て、孝太が少しだけ笑う。
その笑顔が、余計に心を揺らした。
楓が、そんな二人をちらりと見て、
「仲良いですね」と冗談っぽく言う。
その一言に、空気がわずかに張りつめた。
羽春は笑ってごまかしたけど、
その笑顔の奥では、
——仲良いなんて、そんな簡単な言葉で言われたくない、
という言葉が喉の奥でつっかえていた。
***
委員会が終わると、いつものように体育館の隣を通って帰る。
今日も夕焼けが校庭を染めていた。
オレンジ色の光が長く伸びる影を作って、
羽春と孝太の間に、言葉にできない距離を映す。
「今日も残ってたのか」
「はい。先輩も……部活、もう終わってるのに」
「ついな。見てるだけでも落ち着くんだ」
「……先輩、ほんとにバレー好きですよね」
孝太が少し笑う。
「羽春も、バスケ好きだろ?」
「……はい。
でも、うまくいかない日もあって、
好きって気持ちが揺れることもあります」
「そういう日もあるさ」
孝太は夕陽を背にしながら、静かに言った。
「でも、離れなかったら、また好きに戻る」
羽春はその言葉を噛みしめるように聞いていた。
離れなかったら、また好きに戻る——。
きっとそれは、バスケのことを言っているんだろう。
けれど羽春の胸の中では、
まるで自分に向けられた言葉のように響いていた。
「……ありがとうございます」
そう言って笑おうとしたけど、
唇が少し震えた。
そのまま、ふたりの影は並んで歩き出す。
校門の前で、孝太が足を止めた。
「羽春」
名前を呼ばれただけで、胸がまた跳ねる。
「はい」
「……無理すんなよ。疲れたときは、ちゃんと休め」
その一言が、どうしようもなく優しくて。
羽春は小さく頷いた。
「はい。……先輩も、ちゃんと休んでくださいね」
「ありがとう」
孝太の笑顔が、夕陽に溶けていく。
羽春はその姿を目に焼きつけながら、
心の中で静かに願った。
——もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。
でも、桜が散ってからの季節は早い。
春が遠ざかるように、二人の時間も少しずつ減っていく。
そのことに気づきながら、
羽春は何も言えないまま、帰り道を歩いた。
風が吹いて、彼女の髪を揺らす。
その風の中に、孝太の声が混ざっている気がした。
「……離れなかったら、また好きに戻る」
羽春は立ち止まり、空を見上げた。
空はまだ、夕暮れの赤を少しだけ残していた。
けれどその赤が消える頃、
きっと“春”という名前の季節も、終わってしまうのだろう。
窓から差し込む光が、机の上の資料をやわらかく照らしていた。
季節は春から初夏へ。
陽射しが少し強くなって、空気の中に埃が舞っているのが見える。
「……この資料、もう一回確認してくれる?」
孝太がそう言って、羽春の机の上にプリントを置いた。
その瞬間、名前を呼ばれなくても、声の響きだけで胸が跳ねる。
何度も聞いた声なのに、聞くたびに新しい痛みと温かさを伴う。
「はい、わかりました」
ペンを持つ手が少し震える。
その小さな震えに、自分でも気づいてしまう。
孝太は少しの間、資料を見つめてから、穏やかな笑みを浮かべた。
「助かる。羽春はいつも丁寧だな」
その言葉に、心臓の奥がじんわりと熱を持つ。
“褒められる”だけのはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「そ、そんなことないです。
ただ、間違えるのが怖くて」
「そういうとこが真面目なんだよ」
軽い調子で言うその声が、やさしくて。
羽春は小さく笑ったけれど、胸の奥では違う何かが疼いていた。
***
そのとき、ドアの向こうから軽い足音がした。
「佐倉先輩、これ提出分で合ってますか?」
振り向くと、楓が立っていた。
黒髪をひとつに結んで、涼しげな目元。
その存在感だけで、空気が変わる。
「お、ありがとう。楓、助かる」
その“ありがとう”の響きが、さっきの「羽春」よりも少し柔らかく感じてしまった。
気のせいかもしれない。
でも、心の奥が静かにざわめいた。
「委員会の資料、私も見ますね」
楓が隣に腰を下ろした瞬間、
孝太と羽春の間にあった小さな距離が、目に見えるように遠ざかった。
プリントをめくる音、ボールペンが紙を滑る音。
沈黙の中で、羽春はただ、自分の呼吸の音だけを聞いていた。
——なんで、こんなに苦しいの。
同じ部屋にいるのに、心は遠く離れていく。
その感覚に気づくたび、胸の奥が締めつけられる。
「……羽春?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
孝太の視線が、真正面からぶつかる。
「え、あ……はいっ」
「大丈夫? 顔、赤いよ」
「な、なんでもないです!」
慌てて否定する羽春を見て、孝太が少しだけ笑う。
その笑顔が、余計に心を揺らした。
楓が、そんな二人をちらりと見て、
「仲良いですね」と冗談っぽく言う。
その一言に、空気がわずかに張りつめた。
羽春は笑ってごまかしたけど、
その笑顔の奥では、
——仲良いなんて、そんな簡単な言葉で言われたくない、
という言葉が喉の奥でつっかえていた。
***
委員会が終わると、いつものように体育館の隣を通って帰る。
今日も夕焼けが校庭を染めていた。
オレンジ色の光が長く伸びる影を作って、
羽春と孝太の間に、言葉にできない距離を映す。
「今日も残ってたのか」
「はい。先輩も……部活、もう終わってるのに」
「ついな。見てるだけでも落ち着くんだ」
「……先輩、ほんとにバレー好きですよね」
孝太が少し笑う。
「羽春も、バスケ好きだろ?」
「……はい。
でも、うまくいかない日もあって、
好きって気持ちが揺れることもあります」
「そういう日もあるさ」
孝太は夕陽を背にしながら、静かに言った。
「でも、離れなかったら、また好きに戻る」
羽春はその言葉を噛みしめるように聞いていた。
離れなかったら、また好きに戻る——。
きっとそれは、バスケのことを言っているんだろう。
けれど羽春の胸の中では、
まるで自分に向けられた言葉のように響いていた。
「……ありがとうございます」
そう言って笑おうとしたけど、
唇が少し震えた。
そのまま、ふたりの影は並んで歩き出す。
校門の前で、孝太が足を止めた。
「羽春」
名前を呼ばれただけで、胸がまた跳ねる。
「はい」
「……無理すんなよ。疲れたときは、ちゃんと休め」
その一言が、どうしようもなく優しくて。
羽春は小さく頷いた。
「はい。……先輩も、ちゃんと休んでくださいね」
「ありがとう」
孝太の笑顔が、夕陽に溶けていく。
羽春はその姿を目に焼きつけながら、
心の中で静かに願った。
——もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。
でも、桜が散ってからの季節は早い。
春が遠ざかるように、二人の時間も少しずつ減っていく。
そのことに気づきながら、
羽春は何も言えないまま、帰り道を歩いた。
風が吹いて、彼女の髪を揺らす。
その風の中に、孝太の声が混ざっている気がした。
「……離れなかったら、また好きに戻る」
羽春は立ち止まり、空を見上げた。
空はまだ、夕暮れの赤を少しだけ残していた。
けれどその赤が消える頃、
きっと“春”という名前の季節も、終わってしまうのだろう。


