契約に同意した途端、望月琴音の世界は音を立てて形を変え始めた。

真柴が淡々と指示を出すたび、段ボールが積み上がり、琴音の生活の匂いがひとつずつ消えていく。
狭い部屋の中を、テキパキと動くスーツの気配だけが支配していた。

「こちらは処分いたします。……よろしいですね、望月様?」

「は、はい……」

古びたテーブルが運び出されていくのを、琴音は呆然と見つめた。
布団、カーペット、安物の棚。
学生生活を支えてくれたすべてが、音もなく消えていく。

「ご報告です。ご家族の負債は神楽坂ホールディングスにて一括返済が完了しました」

「……本当に、全部……?」

「ええ。すべて。これでご家族は解放されます」

胸がじんと熱くなった。
その温度と同時に、背筋に冷たいものが落ちる。

――その代わりに、一年間、私は。

(蓮さんの……妻になる)

大学の休学も、友人への連絡も、すべて真柴が処理した。

「友人へのご説明は『実家の都合で地方へ』で統一いたしました。問題ありません」

「ありがとうございます……」

琴音は、もう「自分で選ぶ」という行為から切り離されたような感覚に陥っていた。



アパートを出る最後の瞬間、古い木の扉にそっと手を触れる。

(……さよなら)

鍵を返し、黒塗りの車に乗り込むと、窓の景色は一瞬で変わっていった。
錆びた看板、安い弁当屋、学生向けアパート。
そのすべてが遠ざかり、代わりに光り輝く街のビル群が迫りあがる。

「ここ……?」

車が停まったのは、都心屈指の最高級レジデンス。
夜空の星より高い場所まで、ガラスの壁がそびえ立つ。

エレベーターで最上階へ案内されると、扉が開いた瞬間――琴音は思わず息を呑んだ。

リビングの向こう、天井まで届く大きな窓。
そこには、東京の夜景が絨毯のように広がっている。

「……っ」

光と闇が交差し、街が宝石のように瞬いている。
足元がふわりと浮くような感覚に襲われた。

「こちらが望月様のお部屋です」

真柴が案内した寝室は、ホテルのスイートのように広く、
柔らかな照明、白いリネン、香水のような微かな香りまで整えられていた。

「このクローゼットの中はすべて、社長が望月様のためにご用意された物です」

扉を開けると、上質な生地のワンピース、コート、靴、バッグ。
整然と並ぶ“別世界の服たち”に、琴音の喉が乾いた。

「こ、こんな……高そうな……」

「これからの望月様の日常になります。ただし、社長のお好みから外れた服は着用なさらないように」

釘を刺すように言われ、胸が強く縮む。

(ここは……豪華だけど、檻なんだ)



夜。
真柴が退室すると、広すぎるリビングに琴音ひとりが残された。

時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。

ソファの端に座り、夜景を眺めるが、胸のざわめきは収まらなかった。

「……本当に、これが私の未来なのかな」

そっと立ち上がり、窓際へ歩いたその時――

重い扉が開く音がした。

「ただいま」

低い声が静寂を切り裂く。

振り返った琴音の視界に、神楽坂蓮が現れた。
スーツ姿のまま、ネクタイを少し緩めている。
冷たい印象の中に、仕事終わりの熱が漂っていた。

「……お、おかえりなさい、神楽坂様」

蓮は一歩近づき、琴音を見つめる。

「“様”はいらない。公の場以外では『蓮』と呼べ」

「れ、蓮……さん」

「“さん”も不要だ」

言葉は冷ややかだが、その目は琴音を逃がさない光を宿していた。

蓮は琴音の顎に指を添え、軽く持ち上げる。

「私の家へようこそ、琴音」

静かな声が、耳のすぐ近くで落ちる。

「君は契約を受け入れた。借金は消え、家族は守られた。……だからこそ、君には私の庇護下で生きてもらう」

指先が唇の輪郭をなぞる。
ぞくり、と背筋が跳ねた。

「その代わり、君は――私に従順でなければならない」

蓮は琴音の顔から手を離し、ソファに腰を下ろした。

「夕食は?」

「は、はい……真柴さんが用意してくださって……」

「そうか」

ワイングラスに注ぐ赤い液体。
グラス越しに見える彼の横顔は、どこまでも冷静で、美しかった。

蓮は静かにグラスを置き、立ち上がる。

「今夜から、君は“妻”として振る舞うことになる。覚悟はできているな?」

琴音の心臓が大きく跳ねた。

「……はい」

蓮はゆっくりと琴音の目の前に立つ。
その長い指が、パジャマの襟元を優しく、けれど確実に掴んだ。

「まずは――その貧しい暮らしで身についた“野暮”を、一つずつ剥がしていく」

息が止まる。

「私の妻は、美しく、そして……私の熱に敏感であるべきだ」

次の瞬間、琴音の身体は蓮の腕に抱き上げられていた。

「きゃ……っ」

思わず声が漏れる。
蓮の腕は冷たく、でもどこか安心するほど力強い。

蓮は迷いなく寝室へ向かった。

琴音は理解した。
ここは極上の楽園であり、同時に絶望の檻だ。

そして――
この夜から、望月琴音と神楽坂蓮の
甘く残酷な“契約の夜”が、静かに幕を開ける。