夜の街は、雨上がりの匂いをまだ纏っていた。
 会社を出ると、アスファルトに残った水たまりが街灯を映し、揺れる光を散らしている。
 傘を差していなかった私は、エントランスの庇の下で空を仰いだ。
 濡れるほどではない。けれど、少しでも空気に触れると、幼い日の記憶が呼び起こされる。

 ——あの日も、雨だった。
 薔薇の花びらが濡れ落ちる庭で、彼に告げられた言葉。
 「……わかったわ。じゃあ、忘れる」
 あの日の自分の声が、今も耳に残っている。

「莉子」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 庇の端に悠真が立っていた。黒い傘を片手に持ち、私を見下ろしている。
 スーツ姿の彼の肩は、外気を含んで薄く光っていた。

「……まだ帰っていなかったの?」
「会議が長引いた。君も残っていたのか」

 彼は自然な動作で傘を差し出した。
「駅まで送る」

「大丈夫よ、自分で——」
「断るな」

 低い声音。
 逆らえず、私は彼の傘の中に身を寄せた。

 歩き出すと、街のざわめきが少し遠のいて聞こえた。
 狭い傘の下、肩が触れそうな距離。
 歩幅を合わせようとすると、彼はわずかに速度を緩める。

 ——その仕草。

 幼い日の記憶が、突然よみがえった。
 雨に濡れた庭で、背の高い薔薇の枝を私に避けさせようと、一歩分遅れて歩いてくれた彼。
 同じだ。仕草が、あのときとまったく変わっていない。

「……どうした」
 私の足が止まったのに気づき、彼が振り返る。
 街灯の下で、黒曜石のような瞳が光る。
 幼いころよりも鋭く、けれど、どこか同じ影を抱えていた。

「いいえ……なんでも」
 首を振って微笑む。
 けれど胸の奥では、押し込めてきた“昔日の面影”が暴れ出していた。



 駅までの道のりは、静かな時間だった。
 信号待ちの間、ふと横顔を見上げると、彼の睫毛の影が頬に落ちていた。
 その影が、十年前の雨の日と重なる。

 あのときは、少年の横顔にしか見えなかった。
 でも今は——副社長としての冷徹な顔。
 けれど、根底にあるものはきっと同じ。

「悠真さん」
 気づけば、名前を呼んでいた。
 彼がわずかに目を向ける。

「……何だ」
「昔と、同じだなって」
「何が」
「歩幅を……合わせてくれるところ」

 口にした途端、胸が熱くなる。
 彼は一瞬だけ黙り、視線を逸らした。
 赤信号が青に変わり、歩き出す。

「……無意識だ」

 低く呟く声は、冷たいはずなのに、耳の奥でやけに温かく響いた。



 駅に着くと、人々の波が一気に押し寄せた。
 それでも傘は私の頭上から離れず、悠真の歩幅は最後まで変わらなかった。

「ありがとう」
 改札の前で立ち止まり、頭を下げる。

「仕事だからな」
 淡々と答える彼の横顔。
 けれど、その目がほんの一瞬だけ揺れたのを、私は確かに見た。

 忘れたふりを続けるはずだった。
 けれど、こうして見せられる“昔日の面影”が、私の心を揺らしてやまない。

 幼い日の初恋は、封じたままでいられるのだろうか。
 答えはまだ出せないまま、私は人混みに紛れた。