翌朝、私は父の会社の本社ビルに足を踏み入れた。
高層のガラス窓が朝日を受けて輝き、堂々とした外観は、社長令嬢である私にさえ圧倒的な存在感を与える。
社長秘書として働く私は、すでにこの環境に慣れていたはずだった。
けれど、今日は違う。昨夜のパーティーで交わした言葉が、心に棘のように残っている。
「君は、あの日のことを本当に覚えていないのか」
彼――悠真の冷ややかな瞳。
忘れたくて、忘れたふりをしてきた記憶を、無理やり引きずり出されたようで、胸が苦しい。
エントランスで足を止めた私に、同僚が声をかけてきた。
「莉子様、副社長が今日から本社に常駐されるそうですよ」
「……副社長が?」
驚きと緊張で心臓が跳ねる。
偶然の再会ではなく、これから毎日のように顔を合わせることになる――その事実が重くのしかかる。
午前十時。
役員会議に同席するため、私は資料を抱えて会議室へと入った。
重厚なテーブルを囲む幹部たちの視線が一斉に集まる。
その最奥に、悠真が座っていた。
冷ややかな黒いスーツ、揺るぎない姿勢。
かつて「友達だろ」と言った少年の面影は消え、そこには切れ味鋭い副社長の姿だけがあった。
「資料を」
短い言葉に促され、私は手元の資料を差し出す。
指先が触れるか触れないかの距離。
けれど彼は表情を変えず、すぐに書類へと視線を落とした。
――冷たい。
それが公私を分けるための態度だと頭では理解しても、心はざわめいた。
会議が進むにつれ、彼の有能さが際立った。
的確な分析と、隙のない説明。
幹部たちはうなずき、次々と賛同の声を上げる。
十歳のあの日、「父の会社を継ぐ」と言った彼の未来が、今ここに具現化されている。
誇らしいはずなのに、胸の奥は切なく軋んだ。
会議後、廊下で彼に呼び止められた。
「莉子。……少し時間はあるか」
「ええ」
小さな会議室に二人きりになる。
ガラス越しに差し込む光が彼の横顔を照らし、冷たい輪郭を際立たせていた。
「君は相変わらずだな。……昨日もそうだった。人に囲まれて笑っていても、本当はどこか遠くを見ている」
「……そんなこと」
「否定できないだろ」
低い声が突き刺さる。
彼はまっすぐに私を見据え、続けた。
「昔からそうだ。俺に“忘れる”と言った日から……君はずっと、自分の気持ちを隠している」
――“忘れる”。
あの日の呟きが、彼の記憶に残っていた?
思わず目を見開いた。
「……覚えていたの?」
「忘れるわけがないだろ」
冷徹な声。けれどその奥に、わずかな揺らぎを感じた気がした。
「……けれど、私……」
言いかけて、唇を噛む。
“初恋だった”なんて、今さら言えない。知られたくない。
彼は私の沈黙を「答え」と受け取ったようだった。
「やはり、君は何も覚えていないんだな」
失望を隠さない声音。
私は息を呑み、何も言えなかった。
彼は視線を逸らし、会議室を後にする。
背中が遠ざかるたび、胸が締めつけられる。
――誤解。
本当は忘れてなんかいないのに。
でも、初恋だったことを知られたくなくて、言葉を飲み込んでしまう。
冷徹な副社長と社長令嬢。
二人の距離は、また一層深く隔てられていった。
高層のガラス窓が朝日を受けて輝き、堂々とした外観は、社長令嬢である私にさえ圧倒的な存在感を与える。
社長秘書として働く私は、すでにこの環境に慣れていたはずだった。
けれど、今日は違う。昨夜のパーティーで交わした言葉が、心に棘のように残っている。
「君は、あの日のことを本当に覚えていないのか」
彼――悠真の冷ややかな瞳。
忘れたくて、忘れたふりをしてきた記憶を、無理やり引きずり出されたようで、胸が苦しい。
エントランスで足を止めた私に、同僚が声をかけてきた。
「莉子様、副社長が今日から本社に常駐されるそうですよ」
「……副社長が?」
驚きと緊張で心臓が跳ねる。
偶然の再会ではなく、これから毎日のように顔を合わせることになる――その事実が重くのしかかる。
午前十時。
役員会議に同席するため、私は資料を抱えて会議室へと入った。
重厚なテーブルを囲む幹部たちの視線が一斉に集まる。
その最奥に、悠真が座っていた。
冷ややかな黒いスーツ、揺るぎない姿勢。
かつて「友達だろ」と言った少年の面影は消え、そこには切れ味鋭い副社長の姿だけがあった。
「資料を」
短い言葉に促され、私は手元の資料を差し出す。
指先が触れるか触れないかの距離。
けれど彼は表情を変えず、すぐに書類へと視線を落とした。
――冷たい。
それが公私を分けるための態度だと頭では理解しても、心はざわめいた。
会議が進むにつれ、彼の有能さが際立った。
的確な分析と、隙のない説明。
幹部たちはうなずき、次々と賛同の声を上げる。
十歳のあの日、「父の会社を継ぐ」と言った彼の未来が、今ここに具現化されている。
誇らしいはずなのに、胸の奥は切なく軋んだ。
会議後、廊下で彼に呼び止められた。
「莉子。……少し時間はあるか」
「ええ」
小さな会議室に二人きりになる。
ガラス越しに差し込む光が彼の横顔を照らし、冷たい輪郭を際立たせていた。
「君は相変わらずだな。……昨日もそうだった。人に囲まれて笑っていても、本当はどこか遠くを見ている」
「……そんなこと」
「否定できないだろ」
低い声が突き刺さる。
彼はまっすぐに私を見据え、続けた。
「昔からそうだ。俺に“忘れる”と言った日から……君はずっと、自分の気持ちを隠している」
――“忘れる”。
あの日の呟きが、彼の記憶に残っていた?
思わず目を見開いた。
「……覚えていたの?」
「忘れるわけがないだろ」
冷徹な声。けれどその奥に、わずかな揺らぎを感じた気がした。
「……けれど、私……」
言いかけて、唇を噛む。
“初恋だった”なんて、今さら言えない。知られたくない。
彼は私の沈黙を「答え」と受け取ったようだった。
「やはり、君は何も覚えていないんだな」
失望を隠さない声音。
私は息を呑み、何も言えなかった。
彼は視線を逸らし、会議室を後にする。
背中が遠ざかるたび、胸が締めつけられる。
――誤解。
本当は忘れてなんかいないのに。
でも、初恋だったことを知られたくなくて、言葉を飲み込んでしまう。
冷徹な副社長と社長令嬢。
二人の距離は、また一層深く隔てられていった。

