——嵐の夜。
 強く求められた唇の感触は、まだ消えなかった。
 翌朝、鏡の前に立つと、頬に残る熱が恥ずかしいほど鮮明だった。

 私は唇を押さえ、深く息を吐いた。
 拒絶したはずだった。
 「やめて」と言った。
 それなのに、心の奥では渇望に似た熱が溢れていた。

「……どうして」

 問いかけても、答えは出ない。
 ただ、十年前のあの日の記憶が胸に浮かんでくる。



 雨の庭。
 濡れた薔薇の花びら。
 少年だった悠真の瞳。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 そう告げた自分の声。
 胸の奥から何かが崩れ落ちる音を、たしかに聞いた。
 あの日から、私は“忘れたふり”を始めた。
 本当は、忘れたことなんて一度もなかったのに。



 窓の外で、小雨が降り出していた。
 デスクに広げた書類の文字は、視界に入ってこない。
 ただ、彼の声だけが響いていた。

「君は、誰のものだ?」
「俺は十年待ったんだ」

 心臓が強く脈打つ。
 なぜ彼は、そんなに私を欲するのだろう。
 十年もの間、思い続けていたというのは本当なのか。

 もしそうなら——私は。



 そのとき、携帯に通知が入った。
 父からのメッセージ。
「近日中に改めて婚約発表の場を設ける。準備をしておけ」

 手から携帯が滑り落ちそうになった。
 婚約。
 偽りのはずの話が、再び現実として迫ってくる。

 私は唇を噛みしめた。
 心は悠真を求めている。
 でも立場は、御曹司との婚約を望んでいる。

 ——どうすればいいの。



 夜、部屋に戻った私は、机の引き出しを開けた。
 そこにしまい込んでいた、十年前の日記帳。
 滲んだインクで、震える字が残されていた。

 「彼のことが好き。でも言えない」
 「忘れるって言った。だからもう泣かない」

 ページを閉じた瞬間、涙が頬を伝った。
 忘れてなんていなかった。
 あのときの私も、今の私も、ずっと同じ人を想い続けていた。



 嵐の夜に交わされた強引なキス。
 それは、閉ざしていた記憶の扉をこじ開けた。
 もう、忘れたふりではやり過ごせない。

 けれど、この想いを口にしたとき、すべてを失うのではないかという恐怖が、まだ胸を縛っていた。