——忘れていなかった。

 あの瞬間、胸の奥に火が灯った。
 十年前、雨の庭で交わした言葉を、彼女も覚えていた。
 あの幼い日の、震える声。

「……わかったわ。じゃあ、忘れる」

 小さな肩を震わせて告げた少女の姿が、今も鮮明に焼きついている。
 あのとき俺は、何も言えずに立ち尽くすことしかできなかった。

 だから彼女が「忘れていない」と涙ながらに告げたとき、本当は、抱き締めてやりたかった。
 だが同時に——疑念が胸を締めつけた。

 なら、なぜ。
 なぜ今まで、彼女は忘れたふりを続けてきたのか。



 深夜の執務室。
 書類に目を落としても、文字が霞んで頭に入ってこない。
 ペンを握る手が震える。

 彼女の沈黙は拒絶ではなかった。
 だが、そう思い込み続けてきた年月が、容易には消えない。

「……俺のものだ、と言ったとき。なぜ、涙を流した」

 机に肘をつき、額を押さえる。
 彼女の涙は、拒絶か、それとも——。

 思考は堂々巡りになり、答えが出ない。



 翌朝。
 役員会議で顔を合わせても、彼女は昨日の涙をなかったことのように振る舞っていた。
 完璧な社長令嬢の微笑み。
 誰に対しても礼儀正しく、冷静な態度。

 その笑顔が、俺を苛立たせる。

 どうして俺には涙を見せたのに、今は微笑んでいられる?
 それが“演技”なのか、それとも“防御”なのか。

 わからない。
 わからないからこそ、欲望だけが募っていく。



 会議後、廊下ですれ違った瞬間、思わず彼女の名を呼んでいた。

「莉子」

 振り返った瞳は、わずかに怯えを帯びている。
 その表情がまた胸を掻き乱した。

「昨日の言葉……本心か」
「……ええ」
「なら、なぜ忘れたふりをした」

 問い詰める声が自分でも驚くほど荒くなる。
 彼女は唇を噛み、視線を逸らした。

「言えません」

 その一言で、心臓が冷たくなる。
 なぜ言えない。
 俺にだけは本心を明かしてほしいのに。

「……俺には打ち明けられない秘密があるのか」
 低く問いかけても、彼女は沈黙で答える。

 その沈黙が、また誤解を呼ぶ。



 夜、窓の外で雨が降り始めた。
 街を濡らす水音を聞きながら、俺は胸の奥に渦巻く思惑を抑えきれなかった。

 ——彼女は俺を拒んでいない。
 ——だが、受け入れてもいない。

 その狭間で揺れる彼女を、待つべきか。
 それとも、強引にでも手に入れるべきか。

 欲望と理性が、何度もせめぎ合う。
 拳を握りしめ、独り呟いた。

「……もう、待てない」