週明けの午後、私は取引先との打ち合わせを終えて会議室を出た。
 外は雨だった。窓ガラスを伝う水滴が流れ落ち、街の景色を曇らせている。
 胸の奥で、十年前の記憶が疼く。
 ——あの日も、雨だった。

 視界の端に悠真の姿が映った。
 黒いスーツの彼は廊下の奥に立ち、無表情のままこちらを見ている。
 逃げるように背を向けたが、すぐに呼び止められた。

「莉子。話がある」



 連れられたのは、誰もいない小会議室だった。
 ドアが閉まる音が、心臓の鼓動を際立たせる。

「……君は、いつまで俺を拒むつもりだ」
「私は……拒んでなんか……」
「違うのか? あの日から、ずっとそうだ。俺の言葉に、君は沈黙で答え続けている」

 鋭い視線が突き刺さる。
 痛いほどに正しい。
 私はいつも、彼の誤解を解けないまま黙り込んでしまっていた。

「俺はもう、君の沈黙を“拒絶”としか受け取れない」

 胸がぎゅっと縮まる。
 違う。違うのに。

「違います……!」
 気づけば、声が震えていた。
「拒んでなんかいない……! 本当は……」

 言葉が詰まる。
 熱いものが頬を伝い、気づけば涙が落ちていた。



「莉子……」
 悠真が驚いたように名を呼ぶ。
 私は涙に滲む視界の中で、必死に言葉を紡いだ。

「本当は……忘れてなんかいないの」

 息を呑む気配。
 初恋のことを、私はずっと隠してきた。
 けれど、もう隠し通せなかった。

「十年前の、雨の日。あの言葉……今でも覚えてる」

 彼の瞳が大きく揺れる。
 けれど、私は最後まで言えなかった。
 “初恋だった”と。
 それを告げてしまえば、もう戻れない気がしたから。



 沈黙が降りた。
 雨音だけが遠くから響く。

「……そうか」
 低く、掠れた声。
 悠真の瞳に、複雑な感情が揺れていた。
 怒りとも、哀しみとも、喜びともつかない。

「なら、なぜ忘れたふりをした」

 答えられない。
 ただ涙が次々と溢れて、頬を濡らす。

 悠真は一歩近づき、ためらうように手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
 その拳が小さく震えている。

「……もういい。今日は帰れ」

 冷たい声。
 背を向けて去っていく彼の姿が、涙越しに滲んだ。



 私は机に両手をつき、肩を震わせた。
 やっと言葉にできたのに。
 けれど、それは「涙の告白」には足りなかった。
 彼に届く前に、また誤解の壁が立ちはだかったのだ。

 ——でも、もう隠せない。
 私の初恋は、ずっと悠真だった。