夜のオフィスは静まり返っていた。
ほとんどの社員が帰宅し、フロアに残っているのは書類の山と、淡い蛍光灯の光だけ。
私は机に向かい、今日一日の報告書を整理していた。
——あのとき、どうして「一緒に帰りたい」と言えなかったのだろう。
御曹司の前で、周囲の視線にさらされて、ただ「一人で帰る」と言い切ってしまった。
悠真の背が遠ざかる光景が、今も胸を締めつける。
コトン、と背後で音がした。
振り向くと、ガラスの会議室から出てくる悠真の姿があった。
黒い上着を肩にかけたまま、私を見て立ち止まる。
「まだ残っていたのか」
「はい……書類が片づかなくて」
短いやりとり。
それだけなのに、心臓が強く打ち始める。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の机の端に視線を落とした。
「……御曹司と帰ったのか」
低い声。
胸の奥がずきりと痛む。
「いいえ、一人で帰りました」
「本当に?」
「ええ……」
誤解を解きたい。
本当は、あなたと一緒に帰りたかった、と。
喉まで言葉がこみ上げるのに、声にならない。
「莉子」
彼の瞳が、夜の光に濡れて揺れた。
「なぜ君は……俺を拒む」
その問いに、全身が震える。
拒んでなんかいない。
ただ、初恋だったことを知られたくなくて。
“忘れたふり”をしているだけで。
けれど、それを説明すれば、すべてが露わになる。
「……私は」
必死に声を紡ぐ。
「私は、自分の立場を守るので精一杯なんです。副社長に迷惑をかけたくありません」
「迷惑……?」
彼の表情が険しくなる。
「君は、俺と一緒にいることを迷惑だと思っているのか」
「違います!」
反射的に叫んでしまった。
目に涙が滲む。
「違う……けれど……」
その先を言えなかった。
心の壁が、どうしても崩せない。
沈黙ののち、悠真は小さく息を吐いた。
「……わかった。君がそこまで言うなら、これ以上は踏み込まない」
冷たい声。
その背中がまた遠ざかっていく。
伸ばした手は、宙で震えたまま。
壁を作っているのは私自身だとわかっているのに、それを壊す勇気が出ない。
——誤解は、まだ終わらない。
心の壁が、二人をまた隔てていく。

