無理やりのキスの翌日。
 私は朝から胸の奥が重く、書類を抱える手もわずかに震えていた。
 資料室での出来事を、どうしても忘れることができない。

 ——拒絶したのに。
 あの瞬間、心の奥で彼を求めてしまった。
 その矛盾を誰にも言えず、私はただ業務に没頭するしかなかった。



 昼休み、社員食堂の隅で同僚の囁きが耳に届いた。

「やっぱり副社長と莉子様って……」
「昨日、資料室で二人が一緒だったって聞いたわ」
「だから婚約話は破談になったのかも」

 私は箸を持つ手を止めた。
 ——誰が見ていたの?
 噂は尾ひれをつけて広がり、いつしか“既成事実”のようになっていく。



 午後、父に呼び出された。
 社長室の扉を開けた瞬間、空気の重さに息が詰まる。
 机の前に立つ父の隣には、例の御曹司が座っていた。

「莉子、お前は副社長と軽率な振る舞いをしたと聞いた」
 父の声は厳しかった。
「社内で目撃され、もう噂になっている。これ以上の醜聞は許されない」

「私は……」
 必死に否定しようとしたが、御曹司が口を挟んだ。

「やはり、莉子様には私のような人間が必要なのです。副社長では、令嬢の立場を守れない」

 その言葉に、胸がざわめいた。
 違う、私は守られたいんじゃない。
 ——本当は、ただ傍にいたいだけなのに。



 社長室を出た廊下の角で、悠真と鉢合わせた。
 彼も呼び出されたのだろうか、険しい顔をしていた。

「莉子」
「……悠真さん」

 一瞬の沈黙。
 けれど彼の口から落ちたのは、冷たい言葉だった。

「俺との関係を、否定したのか」

 心臓が跳ねる。
「違う、私は——」
「否定しただろう。父上と御曹司の前で」

 鋭い声が突き刺さる。
 私は唇を震わせ、言葉を失った。

「……やはり、君にとって俺は何でもなかったんだな」

 悠真が背を向ける。
 その背中に手を伸ばしたいのに、勇気が出ない。
 本当は忘れていない。初恋を、心の奥で今も抱き続けているのに。

 私の沈黙は、またしても“肯定”として受け取られてしまった。



 誤解はさらに連鎖していく。
 父の思惑、御曹司の策略、そして私の弱さ。
 すべてが絡み合い、二人の距離をさらに遠ざけていった。