晩餐会の翌日、社内の空気は妙な熱を帯びていた。
 どこを歩いても耳に入ってくるのは、昨日の悠真の発言についての囁きだ。

「副社長が“俺のものだ”って……」
「社長令嬢を公衆の面前で抱き寄せるなんて」
「でも、あれは本心に違いないわよね」

 噂の中心にいる私は、足を止めずに役員フロアへ向かう。
 俯いた視界に、資料の角が白く光っていた。
 ——あの一言が、まだ胸に焼きついて離れない。



 会議室のドアを押すと、悠真がいた。
 黒いスーツに身を包み、冷徹な副社長の顔をしている。
 なのに、私には昨日の炎のような眼差ししか思い出せなかった。

「……おはようございます」
 努めて事務的に頭を下げる。
 しかし彼は書類を閉じ、まっすぐにこちらを見据えた。

「昨日の件について、言いたいことはあるか」

 胸が跳ねる。
 けれど私は微笑を貼りつけ、表面的な言葉を選んだ。
「おかげで婚約は白紙になるかもしれません。感謝しています」

「礼は要らない」
「ですが……あのような言葉は、私には重すぎます」

 彼の眉が僅かに動く。
「重い? では君は俺にとって軽い存在だとでも?」

「そういう意味ではありません!」
 声を荒げてしまい、唇を噛む。
「私は……誰かの“もの”じゃない」

 その瞬間、悠真の瞳が鋭さを帯びる。
 静かに立ち上がり、私へ歩み寄ってくる。



 息が詰まった。
 気づけば私は資料室に逃げ込んでいた。
 紙の匂いに包まれ、胸の奥で乱れる鼓動を必死に抑える。

 しかし——。

「莉子」

 ドアが開き、悠真が入ってきた。
 閉ざされた空間に、彼の影が深く落ちる。

「逃げるな」
「私は……逃げてなんか」
「目を逸らすことも、逃げるのと同じだ」

 低い声とともに歩み寄る足音。
 棚に追い込まれ、逃げ場を失った。

「昨日の言葉を、もう一度言う」
 彼の瞳が熱を帯びる。
「君は……俺のものだ」

「やめて……そんな言葉、聞きたくない!」

 拒絶の声を上げた、その瞬間。
 彼の手が頬に触れ、次の瞬間、唇が重なった。

 強引で、抗えない熱。
 思わず目を見開き、彼の胸を押す。
 抵抗しようとするのに、胸の奥では別の熱が暴れていた。
 ——なぜか涙が滲む。

「……っ、やめ……」
 必死に絞り出した声で、彼ははっとしたように身を離した。

 荒い呼吸のまま私を見つめ、彼は拳を握りしめる。
「……すまない。だが、どうしても抑えられなかった」

 冷徹な副社長の仮面はもうなかった。
 そこにいるのは、理性を突き破られたひとりの男だった。



 私は震える唇に指をあて、背を震わせた。
 拒絶したはずなのに、胸は焼けるように熱い。
 嫌悪ではなく、渇望に近い感情が自分を支配していることが、何よりも怖かった。

「……悠真さん」
「君が拒んでも、俺は諦めない」
 彼の声は低く、揺るぎない。
「たとえ今は拒絶されても、俺は必ず君を手に入れる」

 扉を開け、彼は去っていった。
 残された空間に、まだ熱が漂っている。

 私は棚に背を預け、震える息を吐いた。
 拒絶したはずなのに、胸の奥では彼の熱を追い求めていた。
 ——拒絶と渇望。
 その二つの感情に引き裂かれながら、私は立ち尽くしていた。