週の半ば、夜七時過ぎ。
 夕食を終えた美琴がリビングで読書をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
 侍女が出ると、落ち着いた低い声が聞こえてくる。
「朝倉様がお見えです」

 思わず立ち上がる。
 こんな時間に、しかも連絡もなしに来るなんて珍しい。
 胸がざわつくのを感じながら玄関に向かうと、コート姿の悠真が立っていた。
「急に悪い」
「いえ……どうぞ」

 リビングに通し、温かいコーヒーを出す。
 彼はカップを手にしたまま、まっすぐこちらを見た。
「最近……会うのを避けてないか」
 核心を突く低い声。
 美琴は瞬間的に視線を逸らす。
「そんなことは……」
「じゃあなんだ。連絡をしても返事が遅い。予定を入れても断られる」
「忙しいだけです」
「――嘘だな」

 短く切り込まれ、胸が強く波打った。
 けれど、あの日のバルコニーで聞いた言葉を口にする勇気はなかった。
 その一言を吐き出してしまえば、きっと二人の関係は元に戻れない。

「……本当に、忙しいだけです」
 自分でも情けないと思うほど、弱々しい声だった。
 悠真はカップを置き、しばらく沈黙した。
 やがて小さくため息をつき、立ち上がる。
「……わかった。今日は帰る」
 その背中が、妙に遠く感じられた。

 玄関先まで見送り、扉が閉まる音を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
 ――本当は、会えて嬉しかったのに。
 それでも、距離を取らなければという思いが勝ってしまう。

 数日後。
 社交パーティの招待状が届き、母が出席を勧めた。
「婚約者としてご一緒すれば、きっと話題になるわ」
「……私は、遠慮しておきます」
 母は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。

 パーティ当日、美琴は家で静かに過ごしていた。
 けれど夜十時過ぎ、スマートフォンが震える。
 画面には悠真の名前。
『今、パーティ終わった。君がいないと、落ち着かない』

 その短い文字を見て、胸が締め付けられる。
 指が返信ボタンにかかるが、打つ言葉が見つからない。
 結局、既読だけを残し、スマホを伏せた。

 ――どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
 ほんの少し前までは、隣にいるだけで嬉しかったのに。

 翌週、偶然訪れた美術館のロビーで、再び彼と鉢合わせた。
 彼は短く挨拶を交わすと、ためらいなく歩み寄ってくる。
「このあと、時間はあるか」
「……少しなら」
 そう答えると、彼の表情がわずかに緩んだ。

 館内のカフェに腰を下ろすと、悠真は視線を逸らさずに言った。
「やっぱり、君のことがわからない」
「……私のこと?」
「前はもっと、自然に笑ってくれた」
 胸が痛む。けれど、その痛みを悟られたくなくて、また笑顔を作った。
「大丈夫です。きっと……元に戻ります」
「戻る? 何から?」
 問い詰められ、息が詰まる。

 その瞬間、店員がコーヒーを運んできた。
 救われたようにカップを手に取り、視線を落とす。
 ――言えるわけがない。“疲れる”なんて言葉を聞いたなんて。

 こうして、また一つ言葉を飲み込み、二人の間の見えない壁は少しずつ高くなっていった。