週に一度の「心ならし」が始まって三回目の夜。
雪はすっかりやみ、街の空気には春の兆しがほんのわずかに混じっていた。
屋敷の応接間には温かな照明が灯り、テーブルの上には紅茶と焼き菓子が用意されている。
悠真は予定通りの時間に現れ、いつものスーツ姿のままコートを脱いで椅子に腰を下ろした。
「今日は、君の番だ」
短く言われ、美琴は深く息を吸う。
約束通り、疑問や不安を三つまで言葉にする日。
初めての回では互いに探り合い、二度目は少し踏み込んだ。
そして今夜は――核心に触れる覚悟をしていた。
「……ひとつ目。あの夜、パーティで言った“疲れる”という言葉について」
悠真の眉がわずかに動く。
「もう説明したはずだ」
「はい。でも……まだ、完全には信じ切れていない自分がいます」
正直に言うと、胸の奥の固まりが少し溶ける感覚があった。
「……それを、どうすれば信じられる?」
「もう一度、はっきり聞きたいんです。あのとき、どういう気持ちでそう言ったのか」
悠真はしばし黙り、紅茶に視線を落とした。
「……あの場にいた友人のひとりが、昔から俺を冷やかすタイプでな。婚約のことも、からかい半分で色々聞かれた。真面目に答えるのが癪で、適当に軽口を返した」
「軽口……」
「そうだ。最低な軽口だった。君がそれを聞いて傷つくことなんて、想像すらしなかった」
低く押し出されるような声に、自己嫌悪の色が混じっている。
「……ごめん」
その一言が、やけに重かった。
「冗談でも、君にそんな風に思われたくない。疲れるどころか、君といると俺は……安心する」
視線がまっすぐに射抜いてくる。
熱を帯びたその目に、わずかな震えが走った。
「……安心、ですか」
「ああ。仕事でどれだけ張り詰めていても、君の顔を見ると緩む。緩んだ自分を見られるのが怖くて、強がった。それが真実だ」
胸の奥にじんわりと温かさが広がる。
ずっと冷たい水の底に沈んでいた心が、少しだけ浮かび上がる感覚。
「……ありがとうございます。やっと、本当に聞けた気がします」
「なら、よかった」
悠真がほっとしたように息をつく。
けれど、まだ終わりではない。
「二つ目。銀座のカフェでのこと」
その名を出すと、悠真の目がわずかに細められる。
「取引先だと聞きました。でも……やっぱり、あのときの笑顔が気になってしまうんです」
「……あれは、契約交渉がうまくいったからだ。それ以上でも以下でもない」
きっぱりとした言い方。
「俺は仕事で笑うし、取引先にも礼儀として笑顔を見せる。でも――」
言葉を区切り、こちらに身を乗り出す。
「君に向ける笑顔と同じだと思ったことは、一度もない」
その断言に、胸の奥で硬く固まっていた氷が音を立てた。
違う――同じではない。
その一線が、彼の中で明確に引かれていることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……わかりました」
「本当に?」
「はい。あなたの言葉を、信じます」
頷くと、悠真の表情がほんの少しだけ緩んだ。
そして三つ目。
本題の中の本題が残っている。
唇を噛み、意を決して口を開いた。
「三つ目……これは、不安というより、お願いです」
「聞こう」
「結婚式の日程を延ばしたとき、あなたは“離れない”と言ってくれました。その約束を……これからも続けてほしいんです」
悠真は一瞬だけ驚いたように瞬きをし、すぐに笑った。
「それはお願いじゃなくて、既に契約済みだ」
「契約?」
「俺の中でな。期限も解約条項もない」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
こんな風に、冗談めかしながらも本気を差し込んでくる彼の言葉が、どうしようもなく好きだと思った。
雪はすっかりやみ、街の空気には春の兆しがほんのわずかに混じっていた。
屋敷の応接間には温かな照明が灯り、テーブルの上には紅茶と焼き菓子が用意されている。
悠真は予定通りの時間に現れ、いつものスーツ姿のままコートを脱いで椅子に腰を下ろした。
「今日は、君の番だ」
短く言われ、美琴は深く息を吸う。
約束通り、疑問や不安を三つまで言葉にする日。
初めての回では互いに探り合い、二度目は少し踏み込んだ。
そして今夜は――核心に触れる覚悟をしていた。
「……ひとつ目。あの夜、パーティで言った“疲れる”という言葉について」
悠真の眉がわずかに動く。
「もう説明したはずだ」
「はい。でも……まだ、完全には信じ切れていない自分がいます」
正直に言うと、胸の奥の固まりが少し溶ける感覚があった。
「……それを、どうすれば信じられる?」
「もう一度、はっきり聞きたいんです。あのとき、どういう気持ちでそう言ったのか」
悠真はしばし黙り、紅茶に視線を落とした。
「……あの場にいた友人のひとりが、昔から俺を冷やかすタイプでな。婚約のことも、からかい半分で色々聞かれた。真面目に答えるのが癪で、適当に軽口を返した」
「軽口……」
「そうだ。最低な軽口だった。君がそれを聞いて傷つくことなんて、想像すらしなかった」
低く押し出されるような声に、自己嫌悪の色が混じっている。
「……ごめん」
その一言が、やけに重かった。
「冗談でも、君にそんな風に思われたくない。疲れるどころか、君といると俺は……安心する」
視線がまっすぐに射抜いてくる。
熱を帯びたその目に、わずかな震えが走った。
「……安心、ですか」
「ああ。仕事でどれだけ張り詰めていても、君の顔を見ると緩む。緩んだ自分を見られるのが怖くて、強がった。それが真実だ」
胸の奥にじんわりと温かさが広がる。
ずっと冷たい水の底に沈んでいた心が、少しだけ浮かび上がる感覚。
「……ありがとうございます。やっと、本当に聞けた気がします」
「なら、よかった」
悠真がほっとしたように息をつく。
けれど、まだ終わりではない。
「二つ目。銀座のカフェでのこと」
その名を出すと、悠真の目がわずかに細められる。
「取引先だと聞きました。でも……やっぱり、あのときの笑顔が気になってしまうんです」
「……あれは、契約交渉がうまくいったからだ。それ以上でも以下でもない」
きっぱりとした言い方。
「俺は仕事で笑うし、取引先にも礼儀として笑顔を見せる。でも――」
言葉を区切り、こちらに身を乗り出す。
「君に向ける笑顔と同じだと思ったことは、一度もない」
その断言に、胸の奥で硬く固まっていた氷が音を立てた。
違う――同じではない。
その一線が、彼の中で明確に引かれていることが、どうしようもなく嬉しかった。
「……わかりました」
「本当に?」
「はい。あなたの言葉を、信じます」
頷くと、悠真の表情がほんの少しだけ緩んだ。
そして三つ目。
本題の中の本題が残っている。
唇を噛み、意を決して口を開いた。
「三つ目……これは、不安というより、お願いです」
「聞こう」
「結婚式の日程を延ばしたとき、あなたは“離れない”と言ってくれました。その約束を……これからも続けてほしいんです」
悠真は一瞬だけ驚いたように瞬きをし、すぐに笑った。
「それはお願いじゃなくて、既に契約済みだ」
「契約?」
「俺の中でな。期限も解約条項もない」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
こんな風に、冗談めかしながらも本気を差し込んでくる彼の言葉が、どうしようもなく好きだと思った。

