屋敷へ戻る夜道は、冬の風が頬を刺した。
実家を出るとき、兄の拓真は「ちゃんと話せ」と背中を押してくれた。
けれど、帰宅してすぐ隼人と向き合う勇気はなかった。
幼い日の記憶が胸の奥で温かく灯っている一方、今の隼人との距離は依然として遠い。
(……あの日から、ずっと私を守ってくれていた。なのに、どうして)
リビングの扉を開けると、暖炉の火が赤く揺れ、隼人がソファに腰掛けていた。
ジャケットを脱ぎ、片手にグラスを持ちながら、視線は雑誌のページに落ちている。
その横顔に、一瞬だけ幼い日の面影を重ねてしまう。
「……ただいま」
「おかえり」
短い言葉。だが以前よりも、ほんの少しだけ柔らかかった。
数日後、兄が主催するビジネス関係者向けのパーティが市内のホテルで開かれた。
花蓮も招待を受け、隼人と共に出席することになった。
会場はシャンデリアが煌めき、ワイングラスの音が軽やかに響く。
兄の部下である営業課長の佐伯が、笑顔で花蓮に近づいた。
「奥様、本日はお美しいですね」
「ありがとうございます。お久しぶりです」
佐伯は学生時代から知る人物で、兄同様に花蓮を妹のように扱ってくれる存在だ。
「最近はどうですか? 環境の変化でお疲れでは」
「ええ、まあ……でも慣れてきました」
短い会話だったが、花蓮は久しぶりに心から笑った気がした。
ふと背後から、氷のような視線を感じた。
振り向くと、隼人が立っていた。
佐伯に向けられた笑顔を、冷ややかに切り裂くような眼差し。
「……楽しそうだな」
低く落とされた声に、佐伯が軽く頭を下げる。
「社長、失礼します」
佐伯が去ると、隼人は花蓮の腕を軽く引いた。
「仕事関係者とそんなに親しげに話す必要はない」
「佐伯さんとは昔からの知り合いです。兄の部下で――」
「関係ない」
その一言は短いが、温度を持った鋭さがあった。
隼人は花蓮を会場横の小さな控室に連れて行った。
暖色のランプが灯る室内で、彼はドアを閉め、低い声を落とす。
「……あまり俺以外の男と笑うな」
「嫉妬ですか?」
挑むように問うと、隼人の眉がわずかに動いた。
「そうだと言ったら」
「あなたが嫉妬なんて、意外ですね」
「意外かもしれないが、不快だ」
距離が詰まり、花蓮は背を壁に預ける形になる。
「……俺は、お前が誰を見て笑うのか、気になる」
「あなたは氷室さんとばかり話しているのに?」
「仕事だ」
「私だって、社交の場では笑顔を見せる必要があります」
隼人の視線が一層深く沈む。
「……俺は、お前の笑顔が欲しいだけだ」
唐突な言葉に、心臓が跳ねた。
隼人は花蓮の顎に指をかけ、視線を固定させる。
「俺を見ろ」
命令のような響きに、息が詰まる。
彼の瞳の奥には、隠しきれない熱と、独占欲が渦巻いていた。
「……やっと、私を見たんですね」
花蓮の声はかすかに震えていたが、挑む色を帯びていた。
「見ている。ずっと」
「じゃあ、距離を置くのはやめて」
「……簡単じゃない」
沈黙の中、二人の呼吸だけが重なる。
隼人は何かを言いかけたが、控室の外から呼びかける声に遮られた。
二人は何事もなかったように会場へ戻った。
けれど、花蓮の中では何かが変わっていた。
守られるだけの存在ではなく、彼の心を揺らすことができる――
それを知った瞬間、立場がわずかに逆転した気がした。
(この関係を、私の意志で動かせるかもしれない)
グラスを持つ手の奥で、胸の鼓動が静かに速まっていた。
実家を出るとき、兄の拓真は「ちゃんと話せ」と背中を押してくれた。
けれど、帰宅してすぐ隼人と向き合う勇気はなかった。
幼い日の記憶が胸の奥で温かく灯っている一方、今の隼人との距離は依然として遠い。
(……あの日から、ずっと私を守ってくれていた。なのに、どうして)
リビングの扉を開けると、暖炉の火が赤く揺れ、隼人がソファに腰掛けていた。
ジャケットを脱ぎ、片手にグラスを持ちながら、視線は雑誌のページに落ちている。
その横顔に、一瞬だけ幼い日の面影を重ねてしまう。
「……ただいま」
「おかえり」
短い言葉。だが以前よりも、ほんの少しだけ柔らかかった。
数日後、兄が主催するビジネス関係者向けのパーティが市内のホテルで開かれた。
花蓮も招待を受け、隼人と共に出席することになった。
会場はシャンデリアが煌めき、ワイングラスの音が軽やかに響く。
兄の部下である営業課長の佐伯が、笑顔で花蓮に近づいた。
「奥様、本日はお美しいですね」
「ありがとうございます。お久しぶりです」
佐伯は学生時代から知る人物で、兄同様に花蓮を妹のように扱ってくれる存在だ。
「最近はどうですか? 環境の変化でお疲れでは」
「ええ、まあ……でも慣れてきました」
短い会話だったが、花蓮は久しぶりに心から笑った気がした。
ふと背後から、氷のような視線を感じた。
振り向くと、隼人が立っていた。
佐伯に向けられた笑顔を、冷ややかに切り裂くような眼差し。
「……楽しそうだな」
低く落とされた声に、佐伯が軽く頭を下げる。
「社長、失礼します」
佐伯が去ると、隼人は花蓮の腕を軽く引いた。
「仕事関係者とそんなに親しげに話す必要はない」
「佐伯さんとは昔からの知り合いです。兄の部下で――」
「関係ない」
その一言は短いが、温度を持った鋭さがあった。
隼人は花蓮を会場横の小さな控室に連れて行った。
暖色のランプが灯る室内で、彼はドアを閉め、低い声を落とす。
「……あまり俺以外の男と笑うな」
「嫉妬ですか?」
挑むように問うと、隼人の眉がわずかに動いた。
「そうだと言ったら」
「あなたが嫉妬なんて、意外ですね」
「意外かもしれないが、不快だ」
距離が詰まり、花蓮は背を壁に預ける形になる。
「……俺は、お前が誰を見て笑うのか、気になる」
「あなたは氷室さんとばかり話しているのに?」
「仕事だ」
「私だって、社交の場では笑顔を見せる必要があります」
隼人の視線が一層深く沈む。
「……俺は、お前の笑顔が欲しいだけだ」
唐突な言葉に、心臓が跳ねた。
隼人は花蓮の顎に指をかけ、視線を固定させる。
「俺を見ろ」
命令のような響きに、息が詰まる。
彼の瞳の奥には、隠しきれない熱と、独占欲が渦巻いていた。
「……やっと、私を見たんですね」
花蓮の声はかすかに震えていたが、挑む色を帯びていた。
「見ている。ずっと」
「じゃあ、距離を置くのはやめて」
「……簡単じゃない」
沈黙の中、二人の呼吸だけが重なる。
隼人は何かを言いかけたが、控室の外から呼びかける声に遮られた。
二人は何事もなかったように会場へ戻った。
けれど、花蓮の中では何かが変わっていた。
守られるだけの存在ではなく、彼の心を揺らすことができる――
それを知った瞬間、立場がわずかに逆転した気がした。
(この関係を、私の意志で動かせるかもしれない)
グラスを持つ手の奥で、胸の鼓動が静かに速まっていた。

