大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

朝のフロアは、どこか落ち着きがなかった。

パソコンの起動音、コピー機の駆動音、その隙間に、ひそひそとした声。

朱里が席に着くと、すでに“それ”は空気に混ざっていた。

「……平田さん、異動らしいよ」

「え、転勤?聞いてないけど」

背中側から聞こえてくる声に、朱里の指が一瞬止まる。

(……早い)

まだ正式に発表されたわけじゃない。

でも、“噂”はいつも本人より先に走る。

「地方って話もあるらしい」

「えー、急じゃない?」

朱里は、画面を見つめたまま、何も言わなかった。

言えない。

言う立場じゃない。

(私は、まだ何も決めてない)

自分に言い聞かせるように、マウスを握り直す。

「中谷先輩」

背後から、明るすぎる声。

「平田さん、転勤するんですか?」

望月瑠奈だった。

あまりにもストレートで、周囲の空気が一瞬固まる。

「……私は、詳しくは知らない」 朱里は、言葉を選んで答える。

「そうなんですか?」 瑠奈は首を傾げる。

「でも、先輩と平田さん、最近よく一緒に帰ってますよね」

──来た。

視線が、さりげなく集まる。

朱里は、深く息を吸った。

「仕事以外のことは、仕事に持ち込まない」

「それだけです」

淡々とした声だった。

感情を乗せない。

美鈴に教えられた“立ち位置”。

瑠奈は、少しだけ目を細める。

「……なるほど」

「じゃあ、先輩は“待つ側”なんですね」

核心を突かれた気がして、胸がきしむ。

でも、否定しなかった。

「……そう見えるなら、それでいい」

その返事に、瑠奈は一瞬黙る。

そして、小さく笑った。

「先輩、強いですね」

「私なら、もう白黒つけたくなります」

「強くない」 朱里は、正直に言った。
「怖いだけ」

その一言で、空気が少し変わった。

昼前、美鈴が自席から顔を上げる。

「中谷、会議室。五分」

短い指示。

でも、その声に迷いはない。


◆会議室

ドアを閉めた瞬間、美鈴が言った。

「噂、回ってる」
「想定より早い」

朱里は頷く。

「……耐えられます」
「今は、余計なこと言わないって決めたので」

美鈴は、少しだけ微笑んだ。

「いい判断」

「“関係者です”って顔をしないのも、立派な仕事」

そして、声を落とす。

「でもね」

「限界が来たら、私を使いな」

朱里は、思わず笑ってしまった。

「親友、心強すぎません?」

「仕事では冷たい上司」

「私生活では親友」

美鈴は、さらっと言う。

「役割分担」

会議室を出るとき、朱里は少しだけ背筋が伸びていた。

噂は止まらない。

でも、自分の立ち位置は、まだ揺れていない。

(決めない選択は、逃げじゃない)

職場のざわめきの中で、

朱里は静かに、そこに立っていた。