大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

午後のオフィスは、いつも通りのはずだった。
キーボードの音。

電話の呼び出し音。

コピー機の低い唸り。

なのに──朱里には、全部が少しだけ遠かった。

(……何も言われてない)
(誰にも、何も)

それなのに。

自席に戻る途中、視線を感じる。

誰かが見ている、というより

誰もが、見ないようにしている感じ。

「中谷先輩」

声をかけてきたのは、瑠奈だった。

いつもより、ほんの少しだけ声量が抑えめ。

「この資料、確認お願いしてもいいですか?」

「……うん、いいよ」

受け取りながら、瑠奈の目を見る。

探るようでも、疑うようでもない。

でも、いつもより“距離を測る目”。

「ありがとうございます」

そう言って戻っていく背中が、妙に真っ直ぐだった。

(……勘のいい後輩って、怖い)

席に着くと、隣の部署の会話が耳に入る。

「平田さん、午後外出だっけ?」

「いや、今日はずっと社内のはず」

──嵩の名前が出るだけで、心臓が反応する。

(ダメだ、仕事、仕事)

画面に視線を戻す。

数字を追う。

文章を読む。

……読んでいるはずなのに、頭に入ってこない。

その時。

「中谷さん」

今度は、美鈴だった。

立ったまま、感情の見えない顔。

「少し、いい?」

「……はい」

応接室、ではなかった。

給湯室の前。

誰も長居しない、でも完全な密室でもない場所。

「さっきの会議室」

核心を、いきなり突いてくる。

「平田さんと、二人だったわね」

否定しようと思えば、できた。

でも──しなかった。

「……はい」

美鈴は、それ以上聞かない。

「転勤の話?」

朱里は、一瞬だけ迷ってから頷いた。

「……告げられました」

美鈴は小さく息を吐いた。

「そう」

それだけ。

同情も、驚きも、慰めもない。

でも、その“そう”には

もう知っていた人の重さがあった。

「周り、気づいてるわよ」

朱里の肩が、ぴくっと揺れる。

「言ってないのに?」

「言わないからよ」

美鈴は淡々と続ける。

「言葉がない時ほど、人は観察する」
「距離、声のトーン、タイミング」
「職場は、そういう変化に敏感」

朱里は、唇を噛んだ。

「……じゃあ、もう噂に?」

「まだ」
「でも、時間の問題」

断言だった。

「だから」

美鈴は、朱里をまっすぐ見た。

「あなたがどうするか、決めるまで」
「曖昧な態度は取らないこと」

厳しい言葉。

でも、責めてはいない。

「揺れるなら、揺れていい」
「でも、隠すために笑うのはやめなさい」

朱里の胸に、ずしっと落ちる。

(……見抜かれてる)

「あなたは今」
「何も間違えてない」

そう言ってから、美鈴は付け足した。

「ただし」
「覚悟は、これからよ」

それだけ言って、美鈴は戻っていった。

朱里は、その場に一人残る。

給湯室の明かりが、やけに白い。

(空気、変わったんだ)

誰かが責めたわけじゃない。

誰かが聞いてきたわけでもない。

でも──
もう、何もなかった頃には戻れない。

デスクに戻る途中。

嵩と、すれ違った。

一瞬だけ目が合う。

言葉は、ない。

でも。

“伝えたあとの目”だった。

朱里は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

(……逃げないって、こういうことか)

職場の空気は、確かに一段変わった。

それでも。

朱里は、席に着き、画面を開く。

今はまだ、答えは出ていない。

でも──
知ったまま、ここにいる。

それだけで、昨日の自分とは違っていた。