翌日、朝から落ち着かなかった。
 父の会社の会議も、書類の確認も、頭のどこかで「今夜」という言葉が反響していた。
 ――正式に伝えたいことがある。
 真壁の低い声と、昨夜の温かな笑みが、何度も蘇る。

 午後、ふと携帯が震えた。
 《19時、帝国ホテルのラウンジで》
 短いメッセージ。それだけで胸が高鳴る。

 

 約束の時間、ラウンジは静かで上品な空気に包まれていた。
 真壁はすでに来ていて、窓際の席から夜景を眺めていた。
 私が近づくと、彼はすっと立ち上がり、軽く会釈をする。
 「来てくれてありがとう」
 「……お招きいただきありがとうございます」
 形式的な言葉の裏で、互いの視線は微かに熱を帯びていた。

 着席し、注文を済ませると、彼はテーブルの上に小さな箱を置いた。
 「まず、これを」
 開けると、中にはシンプルなプラチナの指輪が入っていた。
 「……これって」
 「婚約指輪です」

 私は息を飲む。
 「まだ返事を聞いていませんが、今日ここで答えをもらいたい」
 彼の声は、今までで一番真剣だった。

 

 「僕は外交官として、常に多くの人と会い、時に嘘も必要とします。
  でも、美桜。あなたの前では、一度も嘘をつきたくなかった」
 私の名前を呼ぶ声が、心の奥に静かに響く。
 「お見合いの時から、あなたは僕を試し、僕もあなたを試した。でも今は、もう試す必要はない」

 私が黙っていると、彼は続けた。
 「僕は、あなたと人生を共に歩みたい。条件や立場ではなく、感情で選びたいのは、あなたです」

 ――その言葉を、どれほど待っていたか分からない。
 あの日から何度も揺れて、疑って、距離を置いて……それでも消えなかったのは、この人への想いだった。

 「……私も、信じたいです。あなたのこと」
 「信じたい、じゃなくて?」
 「信じます。だから――お願いします」

 私が答えると、真壁の目がわずかに揺れ、次の瞬間、安堵の笑みが浮かんだ。
 「……ありがとう」

 

 指輪が私の左薬指にはめられる。
 ひんやりとした金属の感触が、徐々に体温で温まっていく。
 その温もりが、彼の手のひらから伝わる熱と重なった。

 「似合っています」
 「……ありがとうございます」
 視線が絡んだ瞬間、彼はテーブル越しに私の手を引き寄せ、そっと唇を触れさせた。
 周囲の人々の視線など、もうどうでもよかった。

 

 「これからは、誤解させないように努力します」
 「私も、すぐに疑わないようにします」
 そんな約束を交わしながら、二人で笑った。
 不器用で、何度もすれ違った。
 でも、こうして同じ方向を見られるのなら、それでいい。

 夜景の向こうに、東京タワーが金色に輝いていた。
 それはまるで、これから始まる二人の道を照らしているかのようだった。