真壁からの《しばらく距離を置きましょう》というメッセージを最後に、二週間が過ぎた。
 その間、彼からの連絡は一度もない。
 私も送らなかった。
 送れば、またあの冷たい視線と、曖昧な笑みを思い出してしまう気がしたからだ。

 仕事に没頭すれば気が紛れるかと思ったが、現実は逆だった。
 会議室で父や役員たちが外交関係の案件を話していると、自然と彼の名が出てくる。
 そのたびに胸の奥がきゅっと縮む。

 そんなある日、父から声がかかった。
 「美桜、来週の国際経済フォーラムに出席してほしい。うちの会社の広報的な意味もある」
 フォーラム――それは当然、外務省や国際機関の関係者も多く出席する場だ。
 嫌な予感が、喉の奥で重く渦巻いた。

 

 当日。
 東京湾を望む大型コンベンションセンターは、朝から厳重な警備に包まれていた。
 国内外の報道陣が出入りし、スーツ姿の人々が忙しなく行き交う。
 登録カウンターで名札を受け取り、会場へ向かう。
 ――そこで、私は見てしまった。

 壇上近くで関係者と話す真壁亮介の姿を。
 二週間ぶりに見る彼は、相変わらず隙のないスーツ姿で、淡々と会話をこなしている。
 表情は冷静そのもので、私が視界に入った様子はない。

 その姿に安堵と落胆が同時に押し寄せた。
 「気づかないでほしい」と「気づいてほしい」が、胸の奥でぶつかり合う。

 

 基調講演が終わり、休憩時間に入った。
 私は資料を手に取り、窓際でコーヒーを飲んでいた。
 すると背後から低い声がした。
 「お久しぶりですね」
 振り向くと、そこに真壁が立っていた。

 「……お仕事、お忙しそうですね」
 「ええ。あなたも相変わらずお綺麗で」
 形式的なやり取り。それだけで終わるはずだった。
 けれど、彼はそのまま言った。
 「この二週間、ずっと考えていました」

 心臓が跳ねる。
 「何を……?」
 「僕は外交官として正しい距離を取ろうとしました。でも、それは間違いだった」
 視線が真っ直ぐにぶつかる。
 「距離を置いても、あなたのことを考える時間は減らなかった」

 不意に、胸の奥で固まっていたものが揺らぐ。
 でも、私はまだあの日の光景を忘れられない。
 「……あの女性のことは?」
 「何度も言いますが、ただの同僚です。それ以上でも以下でもない」
 「でも、私には……」
 「信じてもらえない」
 彼は小さく苦笑した。
 「外交官は嘘をつく職業だと思われがちですが、僕は、あなたには嘘をつきたくない」

 

 その時、スタッフが近づき、彼に耳打ちした。
 急な来賓対応が入ったらしい。
 「少しだけ待っていてくれますか」
 そう言って去っていく彼の背中を、私は目で追った。

 数分後、会場の端で彼が外国人の男性と話す姿が見えた。
 その隣に、またしてもあの女性がいる。
 笑顔で彼の肩に手を置く仕草。
 周囲の人々の視線がそこに集まる。

 ――やっぱり。
 胸の奥に怒りと失望が同時に膨らみ、気づけば私はその場を離れていた。

 

 コンベンションセンターの外に出ると、冷たい潮風が頬を打った。
 歩道を急ぎ足で進む私の後ろから、名前を呼ぶ声が追ってくる。
 「美桜!」
 振り返ると、真壁が人混みをかき分けて走ってきた。
 「なぜ帰るんです」
 「見たからです。……また、あの人と」
 「違います」
 「何が違うんですか!」

 思わず声が大きくなる。
 周囲の人々がこちらを見るのも構わず、私は言葉をぶつけた。
 「あなたの言葉を信じたい。でも、信じられないことばかり起こるんです」
 「信じてほしいと、何度言えば――」
 「じゃあ、どうして私じゃなく、あの人に笑うんですか!」

 吐き出した瞬間、自分でも驚くほど涙がこぼれた。
 真壁は一瞬ためらった後、私の肩を強く抱き寄せた。
 「……あなたにだけ、笑ってるつもりだった」
 耳元で落とされた低い声は、震えていた。

 「信じさせてくれますか」
 その問いに、私は返事をしなかった。
 けれど、彼の腕を振りほどくこともできなかった。