成田空港のロビーに、冷たい春の風が吹き込んだ。
美桜は制服の上から薄手のコートを羽織り、搭乗ゲートへと向かう。
今日の便はシンガポール行き。比較的短いフライトだが、乗務員のメンバー表にはまた遼の名前があった。
この数ヶ月、同じ便に乗るたび、距離は縮まるどころか遠ざかっていく気がする。
ブリーフィングルームの扉を開けた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰める。
遼は航路図を確認しており、その傍らには森川が立っていた。
森川の笑い声がふっと耳に届く。
――また、あの距離感。
美桜は自分の席に腰を下ろし、配られた資料に視線を落とす。
だが、ページの文字は頭に入らなかった。
離陸から二時間後。
機内は穏やかで、乗客たちはそれぞれの時間を楽しんでいる。
美桜は通路をゆっくり進みながら、水のボトルをトレーに並べて配っていた。
客席の横を通り過ぎるたび、視線の端に遼の姿がちらつく。
操縦席から休憩に出てきたのだろう、彼は前方ギャレーで何かを探しているようだった。
通り過ぎざまに視線が交わった。
しかし、いつも通り、ほんの一瞬で逸らされる。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚。
それでも、心は勝手に彼の動きを追ってしまう。
軽い揺れが収まった直後、ギャレーで整理をしていると、背後から声がした。
「佐伯」
振り向くと、遼が立っていた。
目を合わせた瞬間、何かを言いかけて、しかし唇が閉じられる。
「……何でもない」
それだけを残し、彼は歩き去った。
残された美桜は、手の中のトレーの重さを急に感じる。
シンガポール到着後のホテルロビー。
現地スタッフから鍵を受け取ると、直哉が近づいてきた。
「明日の朝、少し時間ある? 相談したいことがあって」
「……わかった」
その会話を背後で誰かが聞いていたような気がして、振り返ったが、誰の姿もなかった。
翌日、ホテル近くのカフェ。
直哉とテーブルを挟み、仕事の話をしていた。
将来の異動、キャリアプラン、そして新しい国での生活の可能性。
現実的な話ほど、美桜の心はどこか宙に浮いていた。
窓の外を見た瞬間、通りの向こうに遼の姿が見えた。
こちらに気づくことなく、ゆっくりと歩き去っていく背中。
その一瞬が、なぜか深く胸を締めつけた。
復路の便。
離陸前、客席確認を終えて前方に戻ると、遼がギャレーに立っていた。
視線が合う。
ほんの少し、何かを伝えようとする気配。
だが、その瞬間、森川が笑顔で声をかけてきた。
「機長、これ、例の書類です」
渡された封筒を受け取りながら、遼は美桜から視線を外した。
心の奥で何かがきしむ音がした。
巡航中、通路の先で直哉と遼が向かい合って話しているのが見えた。
二人の表情は真剣で、内容までは聞き取れない。
近づくと会話が途切れ、遼は短く「仕事に戻れ」と告げた。
その声は冷たいはずなのに、どこか押し殺した響きを帯びていた。
成田到着。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、直哉が美桜に小さく言った。
「このままだと……お前、後悔するぞ」
問い返す前に、彼はギャレーを出て行った。
そこへ遼が入ってくる。
一瞬、視線がぶつかる。
けれど、彼は何も言わず、そのまま通り過ぎて行った。
――もう、限界かもしれない。
その思いが、静かに胸の奥で形を成し始めていた。
美桜は制服の上から薄手のコートを羽織り、搭乗ゲートへと向かう。
今日の便はシンガポール行き。比較的短いフライトだが、乗務員のメンバー表にはまた遼の名前があった。
この数ヶ月、同じ便に乗るたび、距離は縮まるどころか遠ざかっていく気がする。
ブリーフィングルームの扉を開けた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰める。
遼は航路図を確認しており、その傍らには森川が立っていた。
森川の笑い声がふっと耳に届く。
――また、あの距離感。
美桜は自分の席に腰を下ろし、配られた資料に視線を落とす。
だが、ページの文字は頭に入らなかった。
離陸から二時間後。
機内は穏やかで、乗客たちはそれぞれの時間を楽しんでいる。
美桜は通路をゆっくり進みながら、水のボトルをトレーに並べて配っていた。
客席の横を通り過ぎるたび、視線の端に遼の姿がちらつく。
操縦席から休憩に出てきたのだろう、彼は前方ギャレーで何かを探しているようだった。
通り過ぎざまに視線が交わった。
しかし、いつも通り、ほんの一瞬で逸らされる。
胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚。
それでも、心は勝手に彼の動きを追ってしまう。
軽い揺れが収まった直後、ギャレーで整理をしていると、背後から声がした。
「佐伯」
振り向くと、遼が立っていた。
目を合わせた瞬間、何かを言いかけて、しかし唇が閉じられる。
「……何でもない」
それだけを残し、彼は歩き去った。
残された美桜は、手の中のトレーの重さを急に感じる。
シンガポール到着後のホテルロビー。
現地スタッフから鍵を受け取ると、直哉が近づいてきた。
「明日の朝、少し時間ある? 相談したいことがあって」
「……わかった」
その会話を背後で誰かが聞いていたような気がして、振り返ったが、誰の姿もなかった。
翌日、ホテル近くのカフェ。
直哉とテーブルを挟み、仕事の話をしていた。
将来の異動、キャリアプラン、そして新しい国での生活の可能性。
現実的な話ほど、美桜の心はどこか宙に浮いていた。
窓の外を見た瞬間、通りの向こうに遼の姿が見えた。
こちらに気づくことなく、ゆっくりと歩き去っていく背中。
その一瞬が、なぜか深く胸を締めつけた。
復路の便。
離陸前、客席確認を終えて前方に戻ると、遼がギャレーに立っていた。
視線が合う。
ほんの少し、何かを伝えようとする気配。
だが、その瞬間、森川が笑顔で声をかけてきた。
「機長、これ、例の書類です」
渡された封筒を受け取りながら、遼は美桜から視線を外した。
心の奥で何かがきしむ音がした。
巡航中、通路の先で直哉と遼が向かい合って話しているのが見えた。
二人の表情は真剣で、内容までは聞き取れない。
近づくと会話が途切れ、遼は短く「仕事に戻れ」と告げた。
その声は冷たいはずなのに、どこか押し殺した響きを帯びていた。
成田到着。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、直哉が美桜に小さく言った。
「このままだと……お前、後悔するぞ」
問い返す前に、彼はギャレーを出て行った。
そこへ遼が入ってくる。
一瞬、視線がぶつかる。
けれど、彼は何も言わず、そのまま通り過ぎて行った。
――もう、限界かもしれない。
その思いが、静かに胸の奥で形を成し始めていた。

