パリ便から戻って一週間。
春の気配が漂い始めた成田空港は、観光客で賑わっていた。
美桜は制服のスカーフを整え、ブリーフィングルームのドアを開ける。
今日の行き先はニューヨーク。メンバー表には、また遼と森川、そして直哉の名前があった。
部屋の隅では、遼が資料を手に航路図を確認している。
横顔は相変わらず精緻で、近寄れば冷たくされるとわかっていても、視線を外すことができなかった。
「今日もよろしくお願いします」と声をかけようと息を吸った瞬間、直哉が先に彼の方へ歩み寄った。
何やら話している二人の間に割って入る勇気はなく、美桜は黙って席に着いた。
離陸後数時間、機体は穏やかに巡航していた。
通路を挟んで直哉とすれ違うとき、彼が小さく笑みを見せる。
「この前の話、帰りの便で少し時間取れる?」
「……わかった」
そう返した直後、通路の先で遼と目が合った。
表情は変わらないが、視線の奥に硬い色が混じっているように見えた。
次の瞬間には逸らされ、その背中が遠ざかっていく。
ニューヨーク到着後、ホテルのロビーで同僚たちと集合時間を確認していると、遼と森川が並んで入ってきた。
森川の腕には紙袋があり、中にはホテル近くのベーカリーの箱が見えた。
何気ない会話の中で、森川が「機長の好きなマフィン」と笑いながら言う。
その瞬間、美桜の胸にまた小さな棘が刺さった。
――私が知らない彼の好み。
知りたいと思っても、知る機会がないまま、時間だけが過ぎていく。
翌日のオフ、美桜は直哉に誘われて、短時間だけ街を歩いた。
昼のブロードウェイは観光客であふれ、陽射しが硝子に反射して眩しい。
カフェで休憩を取っていると、窓の外を遼が通り過ぎた。
こちらに気づいたかはわからない。
ただ、視線を向けることなく人混みに紛れていくその背中が、なぜか強く胸に焼きついた。
復路の便。
離陸前の確認を終えると、遼が低い声で言った。
「佐伯、到着後すぐ帰れるように準備しておけ」
理由は説明されない。
「わかりました」と答えるしかなかったが、胸の奥に冷たい違和感が広がった。
――やっぱり私を避けてる。
巡航中、突然機体が大きく揺れた。
シートベルトサインが点灯し、客室がざわめく。
美桜は近くの乗客に「ベルトをお締めください」と声をかけながら通路を進んだ。
その瞬間、さらに強い揺れ。足元がふらつき、体が横に流れた。
腰を支える強い腕。
「危ない」
遼だった。
引き寄せられた距離は、息が触れそうなほど近い。
心臓が跳ねるのと同時に、彼はすぐ手を離し、背を向けて去っていった。
温もりだけが残され、言葉は何もなかった。
着陸後。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、森川が美桜に近づいた。
「ねえ、機長ってあなたのこと……気にしてるんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
「ふふ、そうかしら」
冗談のように笑う声に、心がわずかに波立つ。
でも、それは出口付近で遼が何も言わずに先に歩き去る姿を見た瞬間、重く沈んだ。
空港のスタッフ通路。
制服姿のまま、遼と直哉がすれ違いざまに言葉を交わしているのが見えた。
立ち止まった美桜の耳には、その内容までは届かない。
ただ、直哉が何かを真剣な表情で話し、遼が短く頷くのが見えた。
――二人の間で、私の知らない何かが動いている。
胸の奥で、言葉にならない不安と期待がせめぎ合った。
だが、それを確かめる勇気はまだ、持てなかった。
春の気配が漂い始めた成田空港は、観光客で賑わっていた。
美桜は制服のスカーフを整え、ブリーフィングルームのドアを開ける。
今日の行き先はニューヨーク。メンバー表には、また遼と森川、そして直哉の名前があった。
部屋の隅では、遼が資料を手に航路図を確認している。
横顔は相変わらず精緻で、近寄れば冷たくされるとわかっていても、視線を外すことができなかった。
「今日もよろしくお願いします」と声をかけようと息を吸った瞬間、直哉が先に彼の方へ歩み寄った。
何やら話している二人の間に割って入る勇気はなく、美桜は黙って席に着いた。
離陸後数時間、機体は穏やかに巡航していた。
通路を挟んで直哉とすれ違うとき、彼が小さく笑みを見せる。
「この前の話、帰りの便で少し時間取れる?」
「……わかった」
そう返した直後、通路の先で遼と目が合った。
表情は変わらないが、視線の奥に硬い色が混じっているように見えた。
次の瞬間には逸らされ、その背中が遠ざかっていく。
ニューヨーク到着後、ホテルのロビーで同僚たちと集合時間を確認していると、遼と森川が並んで入ってきた。
森川の腕には紙袋があり、中にはホテル近くのベーカリーの箱が見えた。
何気ない会話の中で、森川が「機長の好きなマフィン」と笑いながら言う。
その瞬間、美桜の胸にまた小さな棘が刺さった。
――私が知らない彼の好み。
知りたいと思っても、知る機会がないまま、時間だけが過ぎていく。
翌日のオフ、美桜は直哉に誘われて、短時間だけ街を歩いた。
昼のブロードウェイは観光客であふれ、陽射しが硝子に反射して眩しい。
カフェで休憩を取っていると、窓の外を遼が通り過ぎた。
こちらに気づいたかはわからない。
ただ、視線を向けることなく人混みに紛れていくその背中が、なぜか強く胸に焼きついた。
復路の便。
離陸前の確認を終えると、遼が低い声で言った。
「佐伯、到着後すぐ帰れるように準備しておけ」
理由は説明されない。
「わかりました」と答えるしかなかったが、胸の奥に冷たい違和感が広がった。
――やっぱり私を避けてる。
巡航中、突然機体が大きく揺れた。
シートベルトサインが点灯し、客室がざわめく。
美桜は近くの乗客に「ベルトをお締めください」と声をかけながら通路を進んだ。
その瞬間、さらに強い揺れ。足元がふらつき、体が横に流れた。
腰を支える強い腕。
「危ない」
遼だった。
引き寄せられた距離は、息が触れそうなほど近い。
心臓が跳ねるのと同時に、彼はすぐ手を離し、背を向けて去っていった。
温もりだけが残され、言葉は何もなかった。
着陸後。
乗客を見送り終え、片付けをしていると、森川が美桜に近づいた。
「ねえ、機長ってあなたのこと……気にしてるんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
「ふふ、そうかしら」
冗談のように笑う声に、心がわずかに波立つ。
でも、それは出口付近で遼が何も言わずに先に歩き去る姿を見た瞬間、重く沈んだ。
空港のスタッフ通路。
制服姿のまま、遼と直哉がすれ違いざまに言葉を交わしているのが見えた。
立ち止まった美桜の耳には、その内容までは届かない。
ただ、直哉が何かを真剣な表情で話し、遼が短く頷くのが見えた。
――二人の間で、私の知らない何かが動いている。
胸の奥で、言葉にならない不安と期待がせめぎ合った。
だが、それを確かめる勇気はまだ、持てなかった。

