五月八日、午後。廃材の整理を終えた春馬と勇希は、美術室の奥にある古い倉庫を片付けていた。使われなくなって久しいその場所には、壊れた棚や古びた画材が山積みになっている。
「これ、全部捨てるの?」
春馬が埃をかぶった木箱を持ち上げると、勇希は肩をすくめた。
「さすがにもう使えないだろ。でも、なんか面白いものがありそうだよな」
しおりと愛理も加わり、倉庫の奥を探していると、ふと愛理が壁を叩いた。
「ねえ、この壁……変じゃない?」
コンコンと音が響く。周囲の壁よりも空洞のあるような音だった。
勇希が眉をひそめ、近くにあったバールを手に取った。
「ちょっとだけ壊してみようぜ」
「え、大丈夫かな……」春馬はためらったが、しおりが腕を組んで言った。
「安全確認は私がやる。ここなら誰も通らないし、倒壊の危険もない」
勇希が慎重に壁の一部を外すと、その向こうに狭い通路が現れた。
「……何これ」
埃の舞う中、春馬たちは懐中電灯を手に奥へ進んだ。
通路の先には小さな部屋があり、中には古いキャンバスや画材、そして一枚の巨大な下絵が立てかけられていた。絵は未完成で、中央には涙を流す人物の輪郭だけが描かれている。
愛理がそっと手を伸ばし、下絵に触れた。
「……これ、誰の作品だろう」
恭子が部屋に入ってきて、古いファイルを開いた。
「多分、二十年前に廃部になった絵画部のものよ。ここ、かつて隠し画室だったんだって」
春馬は息をのんだ。
「こんな場所があったなんて……」
勇希は笑い、肩を叩いた。
「運命だな。ここを使おうぜ」
「え?」
「最後の文化祭だろ? 未完成の絵を完成させる。これ以上ないテーマじゃないか」
しおりも頷いた。
「悪くないわね。安全面をクリアできれば、ここで描ける」
愛理の目が輝いていた。
「ここで、“涙の色”を描こうよ」
春馬は下絵を見つめた。描きかけの瞳が自分に問いかけているように感じた。——お前は何を描く?
胸の奥が熱くなる。
「……やろう。ここで、最後の絵を描こう」
隠し画室の空気はひんやりとしていた。窓もないのに、不思議と閉塞感はなく、むしろ外界と切り離された静けさがあった。
勇希は懐中電灯で壁を照らしながら歩き回り、棚に置かれていた古い瓶やパレットを手に取った。
「これ、当時のまま残ってるな……二十年分の埃つきで」
「この下絵、すごく大きいね」愛理が目を輝かせながら言った。「人物の表情、まだ途中なのに……泣いてるみたい」
春馬はその下絵をじっと見つめていた。輪郭だけの瞳が自分の心を映しているようで、視線を逸らせなかった。
「……完成してないからこそ、何かを訴えてる気がする」
「ねえ、これ、使おうよ」愛理は振り向いた。「この下絵をもとに、涙の色を描くんだ」
勇希も頷く。
「いいじゃん。運命だよな、これ」
だが、しおりが冷静な声で言った。
「安全性はどうなの? この部屋、通路も狭いし、換気も悪い」
雅史がライトを持って壁や天井を調べた。
「構造的には問題なさそうだけど、通気口を開けたほうがいいな。あと照明もつけないと」
「私が設備に話を通すわ」しおりはすぐにメモを取り始めた。
恭子は棚の奥に積まれていた古いノートを取り出し、ページをめくった。
「これは当時の絵画部の記録……“最後まで完成させられなかった”って書いてある」
「じゃあなおさらだな。俺たちで完成させる意味がある」勇希が笑った。
春馬も拳を握った。
「ここで描こう。この未完成を、みんなで完成させるんだ」
愛理は嬉しそうに下絵を撫でた。
「じゃあテーマは決まり。“涙の色”と“未完成の完成”。絶対にいいものになるよ」
その日から、隠し画室は特別な場所になった。仲間たちは授業が終わると真っ先にそこへ向かい、掃除や道具の整理を進めた。
春馬はスケッチブックに下絵の模写を描きながら考え続けた。
——涙の色は何色なんだろう。自分の涙は、まだ決められない。
だが、それでも筆を止めることはしなかった。
五月十一日、隠し画室はすっかり姿を変えていた。換気扇が取り付けられ、古い照明は新しいLEDライトに交換された。埃をかぶっていた棚も整理され、かつての荒れた印象は消えていた。
「ここ、本当に秘密基地みたいだね」愛理が笑いながら言った。
「秘密っていうより、俺たちの“特等席”だな」勇希は木材を積み直しながら答えた。
春馬は壁際に置かれた巨大な下絵を改めて見た。未完成の瞳が、自分たちを見つめ返しているように感じる。
「……ここで描くって決めたの、間違いじゃなかったな」
その声に愛理が微笑んだ。
「でしょ? この絵は、きっと私たちを試してるんだよ」
しおりがメモ帳を片手に歩いてきた。
「安全面の許可、下りたわ。通気口の追加と火気厳禁、これで条件はクリア」
「ありがとう、しおりさん」春馬は頭を下げた。
「礼はいいの。約束どおり最後までやり切るだけ」
その言葉は鋭いが、どこか頼もしかった。
恭子はパネル用の文章を練り直しながら言った。
「この場所の歴史も書き加えるね。二十年前に途中で止まった絵を、今の生徒が引き継いで完成させたって」
「いいな、それ」勇希が笑った。「絶対ウケるぞ」
春馬はスケッチブックを開き、下絵の模写に色をのせてみた。淡い灰色と青を重ねた涙の瞳。まだ自分の色を決めきれてはいないが、筆を動かすたびに迷いが薄れていく気がした。
「この絵、完成させよう。絶対に」
自分の声が小さく震えていることに気づき、春馬は深く息をついた。
愛理が横で微笑み、そっと肩を叩いた。
「大丈夫、みんなでやるから」
勇希が拳を突き上げ、しおりはわずかに口角を上げた。恭子も静かにうなずいた。
——隠された画室は、彼らの“涙の色”を描く場所として生まれ変わった。
「これ、全部捨てるの?」
春馬が埃をかぶった木箱を持ち上げると、勇希は肩をすくめた。
「さすがにもう使えないだろ。でも、なんか面白いものがありそうだよな」
しおりと愛理も加わり、倉庫の奥を探していると、ふと愛理が壁を叩いた。
「ねえ、この壁……変じゃない?」
コンコンと音が響く。周囲の壁よりも空洞のあるような音だった。
勇希が眉をひそめ、近くにあったバールを手に取った。
「ちょっとだけ壊してみようぜ」
「え、大丈夫かな……」春馬はためらったが、しおりが腕を組んで言った。
「安全確認は私がやる。ここなら誰も通らないし、倒壊の危険もない」
勇希が慎重に壁の一部を外すと、その向こうに狭い通路が現れた。
「……何これ」
埃の舞う中、春馬たちは懐中電灯を手に奥へ進んだ。
通路の先には小さな部屋があり、中には古いキャンバスや画材、そして一枚の巨大な下絵が立てかけられていた。絵は未完成で、中央には涙を流す人物の輪郭だけが描かれている。
愛理がそっと手を伸ばし、下絵に触れた。
「……これ、誰の作品だろう」
恭子が部屋に入ってきて、古いファイルを開いた。
「多分、二十年前に廃部になった絵画部のものよ。ここ、かつて隠し画室だったんだって」
春馬は息をのんだ。
「こんな場所があったなんて……」
勇希は笑い、肩を叩いた。
「運命だな。ここを使おうぜ」
「え?」
「最後の文化祭だろ? 未完成の絵を完成させる。これ以上ないテーマじゃないか」
しおりも頷いた。
「悪くないわね。安全面をクリアできれば、ここで描ける」
愛理の目が輝いていた。
「ここで、“涙の色”を描こうよ」
春馬は下絵を見つめた。描きかけの瞳が自分に問いかけているように感じた。——お前は何を描く?
胸の奥が熱くなる。
「……やろう。ここで、最後の絵を描こう」
隠し画室の空気はひんやりとしていた。窓もないのに、不思議と閉塞感はなく、むしろ外界と切り離された静けさがあった。
勇希は懐中電灯で壁を照らしながら歩き回り、棚に置かれていた古い瓶やパレットを手に取った。
「これ、当時のまま残ってるな……二十年分の埃つきで」
「この下絵、すごく大きいね」愛理が目を輝かせながら言った。「人物の表情、まだ途中なのに……泣いてるみたい」
春馬はその下絵をじっと見つめていた。輪郭だけの瞳が自分の心を映しているようで、視線を逸らせなかった。
「……完成してないからこそ、何かを訴えてる気がする」
「ねえ、これ、使おうよ」愛理は振り向いた。「この下絵をもとに、涙の色を描くんだ」
勇希も頷く。
「いいじゃん。運命だよな、これ」
だが、しおりが冷静な声で言った。
「安全性はどうなの? この部屋、通路も狭いし、換気も悪い」
雅史がライトを持って壁や天井を調べた。
「構造的には問題なさそうだけど、通気口を開けたほうがいいな。あと照明もつけないと」
「私が設備に話を通すわ」しおりはすぐにメモを取り始めた。
恭子は棚の奥に積まれていた古いノートを取り出し、ページをめくった。
「これは当時の絵画部の記録……“最後まで完成させられなかった”って書いてある」
「じゃあなおさらだな。俺たちで完成させる意味がある」勇希が笑った。
春馬も拳を握った。
「ここで描こう。この未完成を、みんなで完成させるんだ」
愛理は嬉しそうに下絵を撫でた。
「じゃあテーマは決まり。“涙の色”と“未完成の完成”。絶対にいいものになるよ」
その日から、隠し画室は特別な場所になった。仲間たちは授業が終わると真っ先にそこへ向かい、掃除や道具の整理を進めた。
春馬はスケッチブックに下絵の模写を描きながら考え続けた。
——涙の色は何色なんだろう。自分の涙は、まだ決められない。
だが、それでも筆を止めることはしなかった。
五月十一日、隠し画室はすっかり姿を変えていた。換気扇が取り付けられ、古い照明は新しいLEDライトに交換された。埃をかぶっていた棚も整理され、かつての荒れた印象は消えていた。
「ここ、本当に秘密基地みたいだね」愛理が笑いながら言った。
「秘密っていうより、俺たちの“特等席”だな」勇希は木材を積み直しながら答えた。
春馬は壁際に置かれた巨大な下絵を改めて見た。未完成の瞳が、自分たちを見つめ返しているように感じる。
「……ここで描くって決めたの、間違いじゃなかったな」
その声に愛理が微笑んだ。
「でしょ? この絵は、きっと私たちを試してるんだよ」
しおりがメモ帳を片手に歩いてきた。
「安全面の許可、下りたわ。通気口の追加と火気厳禁、これで条件はクリア」
「ありがとう、しおりさん」春馬は頭を下げた。
「礼はいいの。約束どおり最後までやり切るだけ」
その言葉は鋭いが、どこか頼もしかった。
恭子はパネル用の文章を練り直しながら言った。
「この場所の歴史も書き加えるね。二十年前に途中で止まった絵を、今の生徒が引き継いで完成させたって」
「いいな、それ」勇希が笑った。「絶対ウケるぞ」
春馬はスケッチブックを開き、下絵の模写に色をのせてみた。淡い灰色と青を重ねた涙の瞳。まだ自分の色を決めきれてはいないが、筆を動かすたびに迷いが薄れていく気がした。
「この絵、完成させよう。絶対に」
自分の声が小さく震えていることに気づき、春馬は深く息をついた。
愛理が横で微笑み、そっと肩を叩いた。
「大丈夫、みんなでやるから」
勇希が拳を突き上げ、しおりはわずかに口角を上げた。恭子も静かにうなずいた。
——隠された画室は、彼らの“涙の色”を描く場所として生まれ変わった。



