四月二十四日、放課後の放送室には恭子がいた。彼女は壁に貼られた古い掲示物を眺め、静かに息を吐いていた。
  春馬は愛理とともに足を運び、扉をノックした。
 「失礼しまーす」
  恭子は振り返り、柔らかい微笑みを浮かべた。
 「来てくれたのね。ちょうどいいところだったわ」
  机の上には、古い学校史の冊子や地域新聞の記事が並んでいた。
 「これ、学校の歴史?」春馬が尋ねると、恭子はうなずいた。
 「文化祭で展示するなら、この学校がどんな場所だったかも伝えたいでしょ。壁画の説明文に使える資料を探していたの」
  彼女は分厚いファイルを開き、真剣な表情でメモを取っていた。
 「恭子さん、そんなに準備してたんだ」愛理が感心した声を上げる。
 「私は調べ物が好きなの。答えがすぐ出なくても、探し続けると光が見えてくるのよ」
  春馬はその言葉に胸を打たれた。自分は決断が遅いことを悩んでいたが、恭子は迷うことを恐れていない。それどころか、学び続けること自体を楽しんでいる。
  恭子は壁画用の説明文の下書きを見せた。
 『この学校で流れた涙は、すべて未来を描くための色になる——』
  シンプルだが、温かい言葉だった。
 「すごい……」春馬は思わずつぶやいた。
  恭子は軽く笑った。
 「まだ下書きよ。でも、こういう言葉があれば、見た人の心に残るでしょう?」
 「うん、残ると思う」
  そのとき勇希が駆け込んできた。
 「お、ここにいたのか。廃材の搬入日、決まったぞ!」
 「ありがとう、勇希くん。じゃあ説明文と一緒に進められるわね」恭子は落ち着いた声で返した。
  その場にいる全員が笑顔になった。静かだが確かな光のように、恭子の存在はチーム全体を安心させていた。
  帰り道、春馬は愛理に言った。
 「恭子さん、なんかすごいな」
 「うん。あの人がいると落ち着くよね。だから、きっと大丈夫だって思える」
  春馬は頷いた。自分も、もう少しだけ強くなりたいと思った。
 四月二十五日の昼休み、春馬は再び放送室を訪れた。恭子はひとりで資料に目を通していた。分厚いファイルをめくるたび、鉛筆が走り、きれいな字でメモが書き込まれていく。
 「恭子さん、昨日の続き?」
 「ええ。この学校が開校したのは六十年前。卒業生が残した作品や文化祭の記録が思った以上に多くて、まとめるのに時間がかかりそう」
  恭子は顔を上げ、柔らかい笑みを見せた。
 「それ全部、壁画の説明に使うの?」
 「そう。せっかく残すなら“どんな学校だったか”も伝えたいでしょ」
 「……すごいな」
  春馬は正直に感心した。彼女の丁寧な作業を見ていると、自分も真剣にならざるを得ない。
 「学ぶことをやめないって、面白いのよ」恭子は穏やかに言った。「知らないことを知るたびに、世界が広がる気がするの」
 「俺は……すぐ投げ出しちゃうからな」
 「投げ出さない方法を考えればいいだけよ。たとえば、“仲間のためにやる”とか」
  恭子の言葉は軽やかだったが、胸の奥にじんと響いた。
  そのとき勇希が放送室に入ってきた。
 「おー、ここにいたか。春馬、ちょっといいか?」
 「どうしたの?」
 「廃材の搬入日、前倒しできそうなんだ。土曜日にトラック借りられる」
 「ほんとに?」
 「うん、だから当日は力仕事だな」
  勇希の言葉に春馬は頷き、恭子も手を止めて微笑んだ。
 「いいタイミングね。じゃあ私、説明文をその日までに仕上げる」
  放課後、美術室で全員が集まると、恭子が新しくまとめた資料を机に並べた。
 「旭ヶ丘中学校の沿革、過去の文化祭記録、それから地域との関わり。これらを壁画の解説パネルに使うつもり」
 「これ、全部ひとりで?」愛理が驚いた声を上げた。
 「楽しいから、気にならないわ」恭子は淡々と答えた。
  しおりがホワイトボードに予定を書き込みながら言った。
 「じゃあ五月一日は二手に分かれて作業ね。勇希と春馬は廃材搬入、愛理と私は下絵準備、恭子は説明文。雅史は強度の最終確認」
  勇希は笑い、手を叩いた。
 「よし、動き出したな」
  会議の最後に恭子が静かに言った。
 「泣いてもいい、迷ってもいい。でも歩みを止めなければ、きっと光は見えてくる」
  その言葉に、美術室が一瞬しんと静まり、やがて春馬は深くうなずいた。
 五月七日、春馬たちはそれぞれの役割に従って動いた。勇希と春馬は工務店から廃材を搬入し、雅史は強度検証の最終データを取り、愛理としおりは下絵の配置を確認していた。
  そんな中、恭子は一人、資料の束とノートパソコンを前に文章を練っていた。
  夕方、美術室に全員が集合した。恭子は静かに立ち上がり、書き上げた解説文を読み上げた。
 『この学校で流れた涙は、すべて未来を描くための色になる。誰かが泣いた分だけ誰かが強くなり、その思いはこの壁画に刻まれていく』
  読み終わったあと、美術室は静寂に包まれた。愛理が最初に口を開いた。
 「……すごい。これ読んだら、絶対泣いちゃうよ」
  勇希も照れくさそうに笑いながら言った。
 「いいな。なんか胸にくる」
  春馬は恭子を見た。彼女は静かに、でも自信を持って微笑んでいた。
 「恭子さん、ありがとう。なんか……勇気が出たよ」
 「よかった。誰かの力になるなら、学んだかいがあるわ」
  五月七日、春馬はスケッチブックを開き、自分の描いた涙の目に初めて色をのせた。まだ決めきれない色だったが、淡い青と灰色が混ざった、少しにじむような色。
 「……これが、今の俺の涙の色」
  声に出してみると、不思議と胸が軽くなった。
  恭子の「学びをやめない」姿勢が、春馬の背中を押してくれていた。たとえ悩んでいても、一歩ずつ前に進めばいい。その実感が、スケッチブックの上の色となって現れていた。