四月十九日、春馬は朝から落ち着かない気持ちで学校に向かっていた。昨日、正式に文化祭への壁画制作が認められたことで、計画が現実のものになったのだ。
  しかし許可が下りた以上、責任は重い。安全面や作業計画をきちんと詰めなければならない。
  放課後、美術室には全員が集まっていた。しおりが広げた安全管理の資料を前に、勇希が資材の見積もりを読み上げている。
 「ペンキと刷毛、足場用のパイプ。それと廃材はこれくらい必要だな」
 「了解」愛理はメモを取りながら、下絵の進捗を確認している。
  そんな中、扉が静かに開いた。理科準備室から持ってきたらしい大きな箱を抱えた雅史が現れた。
 「遅れてごめん。強度試験の準備に時間かかっちゃって」
 「強度試験?」春馬が首をかしげると、雅史は淡々と答えた。
 「廃材をそのまま使うのは危険だから、三日かけてデータ取る。結果次第で使えるかどうか判断するよ」
 「……三日も?」春馬は驚いた。
  雅史は机に試験用の道具を広げながら言った。
 「壁画はただ絵を描くだけじゃない。安全が保証されないと誰も近づけない。だから時間をかけてでも正確なデータを出す」
  その真剣な眼差しに、春馬は胸を打たれた。自分は決断が遅いと悩んでいたが、雅史は“時間をかけること”を強みにしていた。
 「僕、検証が得意なんだ。何でもデータで裏付けしないと落ち着かない性格でさ」雅史は笑いながら言った。
 「それって、すごく頼りになるね」愛理が声を上げた。
 「うん。雅史がいれば安心して描ける」春馬も同意した。
  その後、雅史は廃材のサンプルを一つずつ測定し始めた。勇希が手伝いながら感心したように言った。
 「お前、理科部だっけ?」
 「うん。将来は建築か材料研究をやりたいんだ」
 「頼もしすぎる」
  会議の最後、しおりが締めくくった。
 「安全の検証に三日かかるのは長いけど、これで安心できるならやる価値あるわね」
 「うん、いいと思う」春馬も同意し、自然と笑みがこぼれた。
  四月十九日、春馬はスケッチブックに壁画のラフを描きながら思った。
  ——時間をかける強さもあるんだな。俺も逃げずに向き合わなきゃ。
 四月二十日、春馬は昼休みに理科準備室を訪ねた。扉を開けると、雅史が机いっぱいに工具と計測器を広げ、黙々と作業をしていた。
 「……何してるの?」
 「廃材の強度測定。文化祭で使う材料だからね」
  雅史は顔を上げずに答え、ノギスで木材の厚みを測っている。
 「そんなに細かく調べる必要ある?」春馬が尋ねると、雅史は手を止め、真顔で言った。
 「あるよ。人が下で作業するんだ、もしもの事故は許されない」
  その声は静かだが、強い決意を感じさせた。
  春馬は机の上のメモを覗き込んだ。そこには細かい数字とグラフがびっしり書かれている。
 「これ全部……?」
 「うん。三日かけてデータ取る。失敗するとやり直しだけど、正確じゃないと意味がないから」
  雅史は淡々と説明しながら、計測器を慎重に扱った。
 「……すごいな」春馬は素直に言った。
 「僕は時間をかけるのが得意なんだ。急いで結論を出すのは苦手。でも、調べ尽くして出した答えには自信がある」
  雅史の笑みは控えめだが、自信に満ちていた。
  そのとき、勇希が顔を出した。
 「おーい雅史、材料の搬入スケジュール決めていいか?」
 「ああ、でもその前に強度試験を終わらせてから。データが出て安全だと分かれば、安心して組める」
 「了解、頼りになるな」勇希は軽く手を挙げて出て行った。
  春馬はしばし雅史の作業を眺めていた。
  ——俺は決断が遅いって悩んでた。でも雅史は時間をかけることを武器にしている。
  そう思うと、自分も変われる気がした。
  放課後、美術室で全員が集まり、雅史は進捗を報告した。
 「強度試験は七二時間かかるけど、データが出たら一気に進められる」
 「待ってる間に何をする?」と愛理が聞くと、しおりが即答した。
 「安全計画の詳細を詰める。高さや動線の確認、避難経路の設定もね」
  勇希は笑って言った。
 「それなら俺は材料の整理だな。三日で終わらせてみせる」
  春馬は小さくうなずいた。自分だけが遅れている気がしていたが、みんながそれぞれの得意分野で動いている。
  ——俺も、描くことで答えを出そう。
 四月二十三日、雅史は理科準備室での検証を終えた。春馬と勇希、愛理、しおり、恭子が見守る中、結果が読み上げられる。
 「廃材の強度は問題なし。補強用の金具を追加すれば安全性は確保できる」
  その一言に、全員が安堵の息を漏らした。
 「ありがとう、雅史。本当に助かった」春馬は心から礼を言った。
 「僕は調べただけ。あとはみんなで作り上げる番だね」
  雅史は淡々とした笑みを見せたが、その目は少し誇らしげだった。
  その後、美術室では具体的な作業計画が立てられた。勇希が資材の搬入日程を組み、しおりが安全計画を最終確認する。恭子は文化祭のパンフレットに掲載する紹介文を作成し、愛理は下絵を仕上げた。
  春馬は壁に貼られた下絵を見つめた。
 「涙の色、か……」
  まだ自分の色を決められないでいたが、もう迷っている時間はない。
 「よし、俺も描こう」
  春馬はスケッチブックを広げ、線を走らせた。仲間たちの真剣な横顔が、そのまま力となった。
  帰り際、雅史が声をかけた。
 「春馬、迷うことは悪くないよ。僕も時間をかけないと答えを出せない。でも、その分だけ納得できる結果になる」
 「……ありがとう。少し気持ちが軽くなった」
 「じゃあ、その気持ちのまま描けばいい」
  春馬は笑った。仲間がいるだけで、ここまで強くなれるのかと驚いていた。
  四月二十三日、スケッチブックのページに涙を浮かべた目を描いた。色はまだ付けられなかったが、形だけはしっかりとした線で残した。
  ——必ず描き切ろう。迷ってもいい、立ち止まらなければ。