四月十三日、放課後の体育館裏。ここには壊れたまま誰も使わなくなった古いイーゼルが放置されていた。春馬は愛理に誘われ、この場所に来ていた。
 「これ……まだ使えるかな」
  春馬が恐る恐る聞くと、背後から低い声がした。
 「使えるさ。直せばな」
  声の主は勇希だった。短髪で快活な印象を与える彼は、体育館のドアを蹴るように開けて現れた。手には工具箱を抱えている。
 「勇希……なんでここに?」
 「愛理に聞いた。文化祭で壁画やるんだって?」
 「あ、うん……でも、まだちゃんとは決まってない」
 「決まってない? そんなのやるに決まってるだろ」
  勇希は壊れたイーゼルを持ち上げて眺めた。脚の部分が完全に外れている。普通なら捨てるしかないだろう。だが勇希は笑った。
 「こういう壊れかけたもんほど、燃えるんだよな」
  そう言って、迷いなく工具を取り出し、修理を始めた。
  春馬は思わず問いかけた。
 「……なんでそこまで?」
 「俺、ずっとバスケ部で補欠だったんだ。最後の大会でボロ負けしたときに、もう一度頑張ろうって思えたのは“逆境”だったから。勝ってるときより、負けてるときの方が熱くなれるんだよ」
  勇希は笑いながらボルトを締め、軽やかに脚をはめ直す。
 「だからさ、この学校だって閉校するんだろ? じゃあ最後くらい、燃えていいじゃん」
  その言葉に、春馬は言葉を失った。昨日まで迷っていたのがばかばかしくなるほど、勇希の姿はまっすぐだった。
 「……ありがとう、勇希」
 「礼はいいよ。やるって決めたら教えろ。そのときは全力で手伝う」
  数分後、イーゼルは見事に修復されていた。勇希は工具を片付けると、汗を拭きながら言った。
 「ほらな? 壊れてたって立て直せるんだよ」
  その言葉が春馬の胸に強く響いた。
  愛理が微笑んで近づき、春馬の肩を軽く叩いた。
 「こういう人が仲間にいると心強いでしょ?」
 「……うん」
  本当に、そう思った。
  四月十三日、春馬は家で父に呼び止められた。
 「文化祭に参加するのか?」
 「……うん。でも勉強もちゃんとやるよ」
  父は一瞬黙り込み、ため息をついた。
 「無理はするなよ」
  その言葉に、春馬は小さくうなずいた。
  窓の外では、春の夜風が桜の花びらを散らしていた。春馬はふと窓を開け、夜空を見上げた。
  ——壊れているものだって、もう一度立ち上がれる。
  勇希の言葉を胸に、春馬は小さく拳を握った。
 四月十四日、春馬は少し早く学校に向かった。昨日、勇希が直してくれたイーゼルをもう一度見たかったからだ。体育館裏に立てかけてあるそれは、昨日とは違って誇らしげに立っていた。
  ——壊れていても、直せば使える。
  勇希の言葉を思い出し、春馬は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
  ホームルームが終わると、勇希が教室にやって来た。
 「春馬、放課後、美術室集合な。廃材アートのアイデアを出そうぜ」
  周囲の生徒が驚いた顔を向けた。勇希はいつも冷静で物静かなタイプだと思われていたからだ。だが今の勇希は笑っていた。
 「閉校するんだからさ、最後に一発でかいことやろうぜ」
  放課後、美術室にはすでに愛理としおり、雅史、恭子も集まっていた。勇希はホワイトボードに「必要物資リスト」と大きく書き、マーカーを走らせた。
 「まずはペンキ、次に足場用のパイプ、それから廃材……ああ、木材は俺が近所の工務店からもらってくる」
  その手際の良さに春馬は驚いた。
  だが同時に、自分がまだ何も提案できていないことに焦りを感じていた。文化祭をどうするのかも決められず、仲間に頼ってばかり。
  そんな春馬を見て、勇希が笑いかけた。
 「お前は絵を描けばいいんだよ。考えることはあとでいい。今はやれることからやろうぜ」
  愛理も隣でうなずいた。
 「春馬くんは描くことが一番得意なんだから。それでいいじゃない」
  その言葉に少し救われ、春馬はスケッチブックを開いた。
  夕方、美術室を出たとき、校舎の影が長く伸びていた。しおりが後ろから声をかける。
 「やるからには本気でやるよ。私、嫌われ役でも構わないから」
  そう言うしおりの目は強く、迷いがなかった。
  春馬はうなずいた。昨日の勇希の言葉と同じだ。逆境こそ力になる。
  ——俺も変われるのかもしれない。
  四月十四日、春馬は机の上でスケッチブックを広げ、壁画の構図を描き始めた。筆は少し震えていたが、線は止まらなかった。
 四月十五日、春馬は勇希とともに商店街へ向かった。勇希は廃材提供を頼みに、顔なじみの工務店へ話をしに行くという。
 「こういうのって恥ずかしくないの?」春馬が尋ねる。
 「恥ずかしい? 逆境を楽しむってのは、恥なんか気にしないってことだろ」
  勇希は笑い、胸を張った。
  工務店の親方は話を聞くなり笑った。
 「いいじゃないか、学校がなくなる前にひと仕事残すんだな。廃材くらいなら好きに持っていけ」
 「ありがとうございます!」勇希は頭を下げた。
  春馬も慌てて頭を下げ、胸の奥が熱くなった。誰かが動けば、協力してくれる人がいる。
  学校に戻ると、しおりは教師たちへの説明資料をまとめていた。
 「安全管理の承認が出れば、壁画の高さも自由にできる。私は嫌われてもいいって決めたから」
  その言葉に勇希は笑った。
 「嫌われ役がいると頼もしいな」
  しおりは肩をすくめただけで、黙々と資料に目を通した。
  夕方、美術室で愛理が下絵を描きながら言った。
 「泣いたときに見える色って、人によって違うよね。私は淡い青。春馬くんは?」
  春馬は少し考えた。
 「まだ……わからない」
 「じゃあ描きながら探そうよ」
  愛理は自然体でそう言い、優しく微笑んだ。
  勇希は再びイーゼルを立て直し、木くずを掃きながら言った。
 「なあ春馬。お前、まだ決断が苦手なんだろ?」
 「……うん」
 「でもさ、決められないときに一歩踏み出すのって、一番ワクワクする瞬間じゃないか?」
  その言葉に春馬は胸を突かれた。自分は何を怖がっているのか——失敗だろうか、笑われることだろうか。
  夜、自宅で春馬はスケッチブックを開いた。昨日よりも線が滑らかに動いた。涙の色はまだ決められないが、そこに集まる仲間たちの顔ははっきりと描けた。
  ——俺は、もう少しだけ踏み出してみたい。