星屑に誓うスケッチブック――廃校30日、涙色の壁画を守れ――

 四月十日、春馬は朝から気が重かった。前日の解体宣告がまだ現実味を帯びず、目を覚ましても心は曇ったままだった。
  廊下を歩いていても、教室に入っても、生徒たちの話題は閉校一色だった。「これからどこに通うの?」という声があちこちで飛び交い、笑い声さえどこか不安を隠しているように聞こえる。
  放課後、春馬はふらりと美術室に足を運んだ。静かな空間が好きだった。絵の具の匂いと、まだ乾ききっていないキャンバスが、日常のざわめきから逃れさせてくれる。
  そこにはすでに愛理がいた。机の上にはスケッチブックと、古びた鉛筆が一本。彼女は静かに鉛筆を走らせていた。
 「春馬くんも来たんだ」
  愛理は顔を上げ、自然な笑みを見せた。無理に元気づけようとするでもなく、ただその場にいることを歓迎する笑みだった。
 「……愛理こそ、こんな日に絵かいてんの?」
 「うん。閉校って聞いて、最初は何も考えられなかった。でもね、何か残したいなって思ったの」
  愛理はスケッチブックをくるりと回し、春馬に見せた。そこには雨に濡れたような目をした少女の素描があった。頬を伝う涙が紙に吸い込まれている。
 「泣いてる……?」
 「うん。でも悲しいだけじゃないの。これは“何かを守りたい”って気持ちの涙」
  愛理は少し視線を落とし、続けた。
 「ねえ、春馬くん。最後にさ、何か残さない? 壁に大きな絵を描いてさ、この学校にいたって証を」
  春馬は言葉を失った。昨日から決められないことばかりだ。絵を残すことは素晴らしいとわかっているのに、「いいよ」と即答できない。
 「……俺、そういうの決めるの苦手だし……」
 「知ってる。でも、決めないまま終わると後悔しない?」
  愛理は首をかしげ、鉛筆を置いた。
 「無理に頑張れって言わない。ただ自然にできることをやってみたいだけ」
  彼女の声は驚くほど穏やかだった。
  その瞬間、春馬の胸に小さな火が灯った気がした。自分が背を向けている間に、愛理はすでに一歩を踏み出している。その姿が眩しく見えた。
 「……考えてみる」
 「じゃあ明日も美術室で話そ。きっと誰か手伝ってくれるよ」
  その日の夜、春馬は机に向かい、スケッチブックを開いた。白いページに向かってペンを動かそうとするが、手が止まった。何を描けばいいのか、やはり答えは出なかった。
  ただ一つだけ、愛理の素描が脳裏に焼きついて離れなかった。
 四月十一日の昼休み、春馬はいつものように教室で弁当を広げていた。だが、愛理の言葉が頭から離れず、箸が止まってしまう。
  「最後に残さない?」——その一言が、昨日の夜からずっと胸に引っかかっている。
  そんな春馬の前に、愛理が立った。
 「ねえ春馬くん。ちょっといい?」
  彼女は自然体な笑顔を見せながら、教室の外を指差した。
 「美術室、来ない?」
 「……今?」
 「うん。少しだけだから」
  春馬は弁当箱を片付け、立ち上がった。美術室に入ると、机の上に大きな模造紙と色鉛筆が並べられていた。愛理はそれを指でなぞりながら言った。
 「文化祭まであと三十日。もし最後に絵を描くなら、もう準備を始めないと間に合わない」
 「でも……俺、そんなリーダーシップとかないし」
 「リーダーなんていらないよ。みんなで作るだけ」
  愛理はそう言い、笑った。
  そのとき、扉が開き、勇希が顔を出した。
 「おっ、何やってんだ?」
 「文化祭の壁画の話だよ」
 「壁画?」
  勇希は興味深そうに近寄ってきた。
 「面白そうじゃん。俺、工具扱えるし廃材も使える。やってみようぜ」
  迷いのない声だった。
  しおりも昼休み終わり際に姿を見せた。彼女は廊下で二人の話を聞いていたらしい。
 「文化祭で壁画? やるなら安全管理は絶対必要ね。高さ制限とか決める必要あるけど、いい?」
  愛理はにっこり笑い、しおりにうなずいた。
 「お願い」
  しおりは「嫌われ役は慣れてるから」と肩をすくめ、書類の手配を引き受けてくれた。
  放課後には雅史と恭子も合流し、わずか半日で五人が集まった。
  春馬は驚いていた。自分は何も決めていないのに、仲間たちはもう動き始めている。
  愛理は春馬の横に立ち、優しく声をかけた。
 「春馬くん、どうする? やる?」
  春馬は息をのんだまま、しばらく答えられなかった。
  結局、その日も決断できず、帰宅後もスケッチブックの前で時間を無駄にしてしまった。
  ——どうしてすぐに「やろう」って言えないんだ。
  自分を責めながら、春馬はペンを置いた。
 四月十二日、春馬は少しだけ早起きした。昨日、結局何も決められなかったことが心に重くのしかかっていた。愛理の「無理しないでいい」という声が脳裏をよぎる。
  ——でも、このままじゃだめだ。
  登校途中、校門の前で勇希に会った。彼はすでに工具袋を肩に掛けていた。
 「おはよう、春馬。昨日の話、どうする?」
 「……考えてる」
 「考えてるだけじゃ進まないぞ。俺、廃材集めてくるから」
  そう言って勇希は走り去っていった。
  授業中も集中できず、ノートの端に無意識で絵を描いていた。ふと気づくと、そこには涙を浮かべた目が描かれていた。
  ——やっぱり、俺も何か描きたいんだ。
  放課後、美術室に集まった仲間たちの顔は明るかった。しおりは学校安全管理のマニュアルを持参し、雅史は廃材の耐久実験のスケジュールをまとめてきていた。恭子は資料館で調べてきた学校の歴史を語り、愛理は模造紙に下絵を描き始めていた。
  春馬はその光景を前に、深く息を吸い込んだ。
 「……俺もやるよ。みんなで、壁画を描こう」
  その一言に、愛理は満面の笑みを浮かべた。
 「うん、そう言ってくれると思ってた」
  勇希が笑い、しおりが軽く頷いた。雅史と恭子も小さく拍手をした。
  四月十二日、春馬は再びスケッチブックを開いた。今度はペンが止まらなかった。涙の色が何色かわからないまま、紙いっぱいに線を重ねる。
  ——決められない自分でも、描くことはできる。
  その確信が春馬の胸に芽生えていた。