六月二十日、朝の空は春らしく穏やかだった。前日の嵐が嘘のように消え、旧校舎の周囲には地域の人々が集まっていた。文化祭の代わりに開かれた「壁画公開」は、台風の中での奮闘の話題とともに街全体へ広まっていたのだ。
  春馬たちは校庭の端に立ち、教育委員会の視察団を迎えた。スーツ姿の大人たちが慎重な表情で校舎へと歩を進める。
 「緊張するな……」雅史が小声で言った。
 「でも、ここまで来たんだ。胸を張ろう」勇希が背中を叩く。
  しおりは腕を組み、委員たちの視線を受けても表情を崩さない。
 「嫌われてもいいって言ったけど、今日だけは嫌われたくないな」
  愛理は笑ってしおりの肩を軽く叩いた。
 「大丈夫だよ。この絵が全部語ってくれる」
  一行は壁画の前に到着した。屋根の崩れた隙間から朝の光が差し込み、涙色インクが再び虹色に輝いていた。
 「これが……君たちの作品か」教育委員長の男性が立ち止まり、目を細めた。
  恭子がタブレットを差し出す。
 「昨日のオンライン配信の記録と、視聴者からのコメントをまとめました。地域の署名も集まっています」
  画面には「この壁画を残してほしい」という声と数百人分の署名が表示されていた。
  委員長は壁画を見つめたまま動かない。沈黙が流れ、春馬の胸が早鐘を打つ。
 ——もし駄目だったら……。
  愛理がそっと春馬の手を握った。
  やがて委員長は深呼吸をして振り返った。
 「……この壁だけは残そう。校舎は解体するが、この作品は保存する価値がある」
 「本当ですか!」春馬の声が震えた。
 委員長の言葉を聞いた瞬間、春馬は言葉を失った。胸の奥に詰まっていた重石が一気にほどけ、足元から力が抜ける。
 「残るんだ……俺たちの絵が」
  愛理が小さく笑い、涙をぬぐった。
 「お母さん……見てるよね、きっと」
  しおりは鼻をすする音を隠すように後ろを向き、勇希は大きく肩を回して深呼吸した。
 「よし、決まったな。これで本当にゴールだ」
  恭子が静かに言った。
 「ネットの反響も後押しになったのね。昨日のコメント、一晩で千件を超えていたわ」
  雅史は首を縦に振り、資料を抱きしめる。
 「僕の検証したデータも役に立ったのか……」
  委員会のメンバーが帰っていくなか、春馬は壁画の前に立ち続けた。
 「ありがとう……」彼は絵に向かってつぶやく。
  この壁に込めた仲間の涙と笑顔、それが未来に残る。そう思うと、胸の奥が熱くなった。
  そこに父親がやってきた。まだ疲れの残る顔で、それでも穏やかに微笑んでいる。
 「やったな、春馬」
  春馬はこみ上げるものを堪えきれず、父の胸に飛び込んだ。
 「うん……俺、決めてよかったよ」
 「お前の決断を信じてよかった」
  仲間たちが見守る中、父と子は強く抱き合った。拍手が自然と広がり、春馬の視界は涙で滲んだ。
 ——この瞬間は一生忘れない。
  壁画の虹色は、朝日に照らされながら静かに輝き続けていた。