午後三時。台風の勢いは最高潮に達していた。体育館の壁が軋み、外から吹き込む風がシートをはためかせる。だが、誰一人として諦めていなかった。
 「春馬、壁画の最終仕上げ、いくぞ!」愛理が声を張った。
 「……ああ、やろう!」春馬は頷き、母のカメラを愛理に託す。
 「これで撮ってくれ。最後の一筆だから」
  春馬は壁画に近づき、祈るように筆を握った。周囲の仲間たちは息を飲んで見守る。勇希は倒れかけたイーゼルを支え、しおりは観客動線を確保し、雅史は屋根の安定を監視し続けている。恭子はオンライン配信のコメントを読み上げた。
 「《最後まで頑張って》《あなたたちの絵に勇気をもらってる》……すごい反響です!」
  春馬の筆先がキャンバスに触れる。その瞬間、強い風で照明が一瞬揺らいだ。だが彼の手は止まらない。
 ——この壁画は、僕たちの涙の結晶だ。
  筆は、みんなの涙色を集めたインクをなぞる。
 「……できた」春馬が小さくつぶやいた。
  壁画には、涙が流れながらも空を見上げて笑う人物が描かれていた。虹のような色彩が背景を彩り、見る者すべての胸を揺さぶる。
  愛理がカメラを下ろし、微笑んだ。
 「お母さんのカメラが泣いてるみたい。シャッター音、すごくきれいだった」
 「ありがとう、愛理……みんなのおかげだ」
  その直後、屋根が大きくきしみ、全員が身構える。だが張り巡らせたロープがそれを食い止めた。
 「ロープが守ってくれてる!」雅史が叫ぶ。
 「もう怖くない!」しおりが両手を広げて笑った。
 春馬は筆を置き、壁画を見上げた。そこには仲間たちの色と想いが詰め込まれている。涙を流しながらも笑う人物の背後に、虹色の光が広がっていた。
 「終わった……」春馬が呟くと、愛理がシャッターを切った。
 「これで全部残した。お母さんのカメラも、きっと喜んでる」
  愛理の目にも涙がにじんでいた。
  勇希が手を上げて言った。
 「よし、これで守るものは全部守ったな。最後まで走り抜けた!」
  しおりも拳を握りしめて笑った。
 「嫌われ役でもなんでもいい。今日だけは堂々と誇れる」
  恭子が配信画面を見せた。
 「視聴者、五百人を超えました。コメントも止まりません」
 《泣いた》《この絵、心に響く》《ありがとう》
 「みんな、見てくれているんだ……」春馬は胸の奥が熱くなるのを感じた。
  台風はまだ荒れ狂っている。それでも誰も怯えなかった。
  愛理がカメラを下ろし、春馬に向けて微笑む。
 「春馬、あんたが決断したからここまで来られたんだよ」
 「いや……みんながいたからだ」
  全員が壁画の前に集まり、手を重ねた。
 「この絵は、俺たちの祈りだ」春馬はそう宣言した。
 「この瞬間を忘れない」
  嵐の音に混じり、体育館の中に温かな拍手が響いた。