六月十日、文化祭準備の期限前夜。春馬たちは旧画室に集まり、最後の仕上げを進めていた。
 「あと少しで完成だな」勇希が工具を片付けながら言った。
 「今日中に終わらせれば、明日は細かい調整だけで済むはずだ」しおりがスケジュールを確認する。
  愛理は壁画の隅で涙色インクを薄く塗り重ねていた。
  そのときだった。
 「……なんか、ポタポタって音しない?」恭子が首を傾げた。
  天井を見上げた春馬の顔が凍りついた。
 「雨漏りだ!」
  古い校舎の天井には小さな穴が開き、雨水がぽたぽたと落ちてきている。誰かが窓を開けていたわけではない。昼間の雨でたまった水が染み出しているのだ。
 「壁画の上に落ちたら……!」愛理が青ざめた。
  春馬は一瞬、迷いかけた。しかし次の瞬間、大きな声を上げた。
 「全員、作品を守れ! 勇希、脚立を! しおり、ビニールシートを!」
  仲間たちはすぐに動き出した。
  勇希が脚立に駆け上がり、バケツで水を受ける。しおりと恭子がビニールシートを広げ、愛理が濡れた部分をタオルで押さえた。
 「春馬、どうする!? このままだと広がる!」勇希が叫ぶ。
 「屋根裏に登る!」春馬は迷わず答えた。
  古い木の階段を駆け上がり、屋根裏に潜り込むと、雨水が小さな穴から流れ込んでいた。
 「ここだ!」春馬は応急処置として板を打ち付け、漏れを止めた。
  下に戻ると、壁画は無事だった。
 「……助かった」愛理が息をついた。
  春馬は仲間を見渡し、深く頭を下げた。
 「みんな、ありがとう。即断できてよかった」
  勇希が笑う。
 「お前、やっとリーダーの顔になってきたな」
  春馬は照れながらも、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
 応急処置を終えた屋根裏から戻った春馬は、壁画の前で立ち尽くしていた仲間の輪に加わった。
 「……本当に、守れたんだな」春馬が呟く。
 「守ったのはあんただよ」愛理が笑う。
  春馬は首を振った。
 「いや、みんなが即座に動いてくれたからだ。俺一人じゃ何もできなかった」
  勇希が肩を叩く。
 「それでいいんだよ。リーダーは全部一人でやる必要ない。ただ決断することが大事だ」
  恭子が安堵の笑みを浮かべた。
 「春馬くんの声、初めてあんなに大きくて迷いがなかった気がする」
  しおりも頷く。
 「そうね。前は決められないって顔してたのに、今日は迷わなかった」
  春馬は少し照れながらも笑った。
 「……ありがとう。もう二度と迷わないよ」
  壁画の前に集まった仲間たちは、濡れた部分を慎重に乾かし、色がにじんでいないことを確認した。涙色インクは幸い無事だった。
 「このインク、強いね」愛理が指先で乾いた部分をそっとなぞった。
 「だって、特別だから」雅史が誇らしげに言う。
  時計の針はすでに深夜を指していた。
 「今日はもう休もう」春馬が声をかける。
 「でもあと一筆……」愛理が筆を握ったまま名残惜しそうに言う。
 「明日だ。完成の瞬間は全員そろって迎えたい」
  外に出ると、雨はすでに止んでいた。街灯の光が濡れたアスファルトに反射している。春馬は夜空を見上げ、深呼吸をした。
 ——俺はもう逃げない。仲間を、作品を、守り抜く。
 六月十一日、旧画室には昨夜の緊張感がまだ残っていた。だが壁画は無事で、インクも色を保っていた。
 「……よかった、本当に守れた」愛理が胸をなで下ろす。
 「雨漏りのせいで失敗するなんて、絶対嫌だったからな」勇希も笑った。
  春馬は皆を前に立ち、深く一礼した。
 「昨日はありがとう。もし俺があのとき迷っていたら、きっと取り返しがつかなかった」
  しおりが腕を組みながら言う。
 「迷わなかったから間に合ったのよ。もう自信持ちなさい」
  恭子も優しく付け加えた。
 「リーダーとして成長してる証拠よ」
  春馬は少し照れくさそうに頭をかいた。
 「これからも、ちゃんと決断するよ。最後まで絶対に守り抜く」
  その言葉に、愛理がにっこりと微笑んだ。
 「じゃあ今日は仕上げだね。最高の一日にしよう」
  全員で壁画に向かい、最後の筆を重ねた。涙色インクが光を受け、昨日よりも鮮やかに輝く。
 ——この光景を絶対に忘れない。
  春馬はカメラを構え、シャッターを切った。フィルムには仲間の笑顔と、守られた作品が焼き付けられた。
 「これで、文化祭を迎えられるな」勇希の言葉に、全員が笑顔でうなずいた。