六月九日の夕方、春馬は屋上に呼び出された。そこには愛理が立っており、手には古いフィルムカメラが握られていた。
「これ、見てほしくて」
愛理が差し出したのは銀色に輝く古い一眼レフだった。
「これ……フィルムカメラ?」
「うん。お母さんが使ってたの。最後の文化祭を撮るなら、これでって思ったの」
愛理の母親は数年前に亡くなっていた。そのことを春馬は知っていたが、彼女が母のカメラを持ち出すのは初めて見た。
「お母さん、写真好きだったの?」
「うん。“泣いてる顔も笑ってる顔も残していい”って言ってた。だから、決断の瞬間を残してってお願いしたいの」
春馬はカメラを受け取り、重さを確かめた。
「……重いな」
「思い出の重さだよ」愛理が微笑んだ。
そのとき、風が強く吹き抜け、二人の髪が揺れた。夕日が西の空を赤く染めている。
「春馬くん、泣き顔でもいいから、ちゃんと撮って」
「分かった。俺、ちゃんと撮る」
愛理はポケットから未使用のフィルムを取り出した。だが、そのフィルムは空白のままだった。
「まだ一枚も撮ってないの?」
「うん。大事な瞬間だけ撮ろうと思って」
春馬はうなずき、フィルムを装填した。
「じゃあ……まず一枚目は、今だな」
シャッター音が静かに響いた。
シャッターを切ったあと、春馬はファインダーをのぞき込んだまま呟いた。
「なんか、不思議だな。デジカメじゃないのに、この瞬間がちゃんと残ってる気がする」
愛理が少し照れたように笑った。
「フィルムって、撮るときにすごく考えるでしょ? だから大事な一枚になるんだよ」
二人はしばらく無言で屋上から夕暮れの街を眺めた。風に乗って遠くの電車の音が聞こえる。
「……春馬くん」愛理がぽつりと話し出した。「お母さんが亡くなったとき、私、泣くのが怖かったんだ」
「怖い?」
「泣いたら、お母さんのことを終わらせちゃう気がして。でも、泣かないでいたら何も変わらなかった」
春馬はファインダーから目を離し、愛理を見た。
「それで今、泣いてもいいって思えるの?」
「うん。泣いてもいいし、泣いた顔も残していいって思えるようになった。お母さんの言ってたことがやっと分かったの」
その言葉に、春馬は小さく笑った。
「じゃあ、これからの瞬間も全部残そう。泣いてるときも笑ってるときも」
「うん」愛理は少し目を赤くしながら頷いた。
夕日が沈み、街の明かりがひとつずつ灯る。春馬はもう一度カメラを構え、今度は愛理の笑顔を撮った。
——この瞬間を忘れない。
六月九日、春馬は愛理からカメラを預かった。
「いいのか? 俺が持ってて」
「うん。春馬くんの決断の瞬間、私が撮るよりも、春馬くん自身が撮ったほうがいいと思ったの」
愛理の言葉はまっすぐで、少しだけ切なかった。
春馬はカメラを胸に抱え、頷いた。
「必ず、最高の瞬間を残すよ」
「うん」愛理が微笑んだ。
そのまま二人は校舎の廊下を歩き、静かな美術室に入った。壁画はまだ未完成だが、涙色インクが星のようにきらめいていた。
「ねえ、春馬くん」愛理が壁画を見つめたまま言った。「この絵を守りたい」
「守ろう。どんなことがあっても」
春馬はファインダーを覗き、仲間が描いた色と形を切り取った。シャッターを押すたびに、心が少しずつ軽くなる気がした。
帰り際、愛理がふいに立ち止まった。
「もし文化祭の日に泣いてる私を見たら、ちゃんと撮ってね」
「もちろん」春馬は笑った。
外に出ると、夜空には星が散りばめられていた。春馬は空白のフィルムを思い浮かべる。
——このフィルムがいっぱいになるころ、俺たちの気持ちもきっと変わっている。
彼はカメラを肩にかけ、深呼吸した。
「明日も撮ろう。泣いても笑っても、全部」
「これ、見てほしくて」
愛理が差し出したのは銀色に輝く古い一眼レフだった。
「これ……フィルムカメラ?」
「うん。お母さんが使ってたの。最後の文化祭を撮るなら、これでって思ったの」
愛理の母親は数年前に亡くなっていた。そのことを春馬は知っていたが、彼女が母のカメラを持ち出すのは初めて見た。
「お母さん、写真好きだったの?」
「うん。“泣いてる顔も笑ってる顔も残していい”って言ってた。だから、決断の瞬間を残してってお願いしたいの」
春馬はカメラを受け取り、重さを確かめた。
「……重いな」
「思い出の重さだよ」愛理が微笑んだ。
そのとき、風が強く吹き抜け、二人の髪が揺れた。夕日が西の空を赤く染めている。
「春馬くん、泣き顔でもいいから、ちゃんと撮って」
「分かった。俺、ちゃんと撮る」
愛理はポケットから未使用のフィルムを取り出した。だが、そのフィルムは空白のままだった。
「まだ一枚も撮ってないの?」
「うん。大事な瞬間だけ撮ろうと思って」
春馬はうなずき、フィルムを装填した。
「じゃあ……まず一枚目は、今だな」
シャッター音が静かに響いた。
シャッターを切ったあと、春馬はファインダーをのぞき込んだまま呟いた。
「なんか、不思議だな。デジカメじゃないのに、この瞬間がちゃんと残ってる気がする」
愛理が少し照れたように笑った。
「フィルムって、撮るときにすごく考えるでしょ? だから大事な一枚になるんだよ」
二人はしばらく無言で屋上から夕暮れの街を眺めた。風に乗って遠くの電車の音が聞こえる。
「……春馬くん」愛理がぽつりと話し出した。「お母さんが亡くなったとき、私、泣くのが怖かったんだ」
「怖い?」
「泣いたら、お母さんのことを終わらせちゃう気がして。でも、泣かないでいたら何も変わらなかった」
春馬はファインダーから目を離し、愛理を見た。
「それで今、泣いてもいいって思えるの?」
「うん。泣いてもいいし、泣いた顔も残していいって思えるようになった。お母さんの言ってたことがやっと分かったの」
その言葉に、春馬は小さく笑った。
「じゃあ、これからの瞬間も全部残そう。泣いてるときも笑ってるときも」
「うん」愛理は少し目を赤くしながら頷いた。
夕日が沈み、街の明かりがひとつずつ灯る。春馬はもう一度カメラを構え、今度は愛理の笑顔を撮った。
——この瞬間を忘れない。
六月九日、春馬は愛理からカメラを預かった。
「いいのか? 俺が持ってて」
「うん。春馬くんの決断の瞬間、私が撮るよりも、春馬くん自身が撮ったほうがいいと思ったの」
愛理の言葉はまっすぐで、少しだけ切なかった。
春馬はカメラを胸に抱え、頷いた。
「必ず、最高の瞬間を残すよ」
「うん」愛理が微笑んだ。
そのまま二人は校舎の廊下を歩き、静かな美術室に入った。壁画はまだ未完成だが、涙色インクが星のようにきらめいていた。
「ねえ、春馬くん」愛理が壁画を見つめたまま言った。「この絵を守りたい」
「守ろう。どんなことがあっても」
春馬はファインダーを覗き、仲間が描いた色と形を切り取った。シャッターを押すたびに、心が少しずつ軽くなる気がした。
帰り際、愛理がふいに立ち止まった。
「もし文化祭の日に泣いてる私を見たら、ちゃんと撮ってね」
「もちろん」春馬は笑った。
外に出ると、夜空には星が散りばめられていた。春馬は空白のフィルムを思い浮かべる。
——このフィルムがいっぱいになるころ、俺たちの気持ちもきっと変わっている。
彼はカメラを肩にかけ、深呼吸した。
「明日も撮ろう。泣いても笑っても、全部」



