星屑に誓うスケッチブック――廃校30日、涙色の壁画を守れ――

 四月二日、春馬は少し早く登校した。昨日の言葉が耳に残っていたからだ。
  「最後に残せるもの」。愛理はどんな絵を思い描いているのだろう。
  校門を抜けると、桜並木の向こうに見慣れた古い校舎が見えた。赤茶けた屋根とひび割れた壁面は、春の日差しの下でもどこか寒々しい。廃校という言葉が、この校舎全体に影を落としていた。
  美術室の扉を開けると、すでに愛理がいた。机の上に、古びたスケッチブックと水彩セットを広げている。
 「おはよ、春馬」
  愛理は自然に笑い、鉛筆を回した。
 「昨日、考えたんだ。私たち、ただ閉校を受け入れるだけじゃなくて、最後にちゃんと『ここにいた証』を残したい」
 「証って……例えば?」
 「壁画とかどう? 卒業生や地域の人にも見てもらえる大きなやつ」
  春馬は驚いて言葉を失った。愛理の視線は真っ直ぐで、迷いがなかった。
 「壁画って、許可とかお金とか、いろいろ大変だろ」
 「だから話し合おうよ。今日放課後に、誰かに声かけてみない?」
  そこへ、ガラリと扉が開いた。
 「お、何の話?」
  体育館帰りらしいジャージ姿の勇希が立っていた。彼は額に汗をかき、笑みを浮かべている。
 「閉校するならさ、最後にひと花咲かせたいって話」
  愛理が説明すると、勇希は腕を組み、口角を上げた。
 「いいじゃん。逆境ほど燃えるだろ? 俺、廃材使った工作とか得意だし」
  その瞬間、春馬の胸が少し軽くなった。自分にはできない決断を、みんなが当たり前のようにしていく。
  春馬は小さくうなずいた。
 「じゃあ……今日の放課後、美術室集合ってことで」
  昼休み、図書室前の廊下でしおりに声をかけた。
 「文化祭で何かやる予定、興味ない?」
  しおりは小さく首をかしげたあと、ため息をついた。
 「どうせやるなら、失敗しても恥かいてもいい覚悟しないとね。……いいよ、手伝ってあげる」
  その言葉に救われる気持ちと同時に、春馬の胸は締めつけられた。覚悟。自分はまだ、それを持っているだろうか。
  放課後、美術室には五人が集まった。
  勇希は壊れたイーゼルを直しながら、材料調達のリストを淡々と書き出していた。
  しおりは学校の安全基準の資料を取り寄せ、「高さはここまでね」と制限を示した。
  雅史は廃材の強度検証を引き受け、恭子は作品説明の台本づくりに没頭している。
  愛理は全体の雰囲気をまとめようと、色見本を広げていた。
  春馬はそんな仲間たちの姿を見つめながら、胸の奥が熱くなった。
  ——これが、自分の選んだ仲間なんだ。
  けれど同時に、自分が何を決断するのかまだ見えていなかった。
  愛理が春馬を見た。
 「部長として、方向性決めてくれない?」
 「……え、あ、うん……」
  視線が集まる。春馬の口は乾き、声が出にくくなった。
  そのとき、窓の外から強い風が吹き込み、桜の花びらが美術室に舞い込んだ。
  春馬は咄嗟に言った。
 「……『涙の色』を描かないか?」
  一瞬の沈黙。
 「涙の色?」勇希が首をかしげる。
 「泣いたときに、思い浮かぶ色ってあるだろ。青とか、灰色とか、赤とか……それを一枚の壁画に重ねてみるんだ」
  愛理がゆっくりとうなずき、鉛筆を握り直した。
 「いいね、それ。最後に残すのにぴったりだと思う」
  こうして、旭ヶ丘中学校最後の文化祭に向けた挑戦が始まった。だが、春馬の心にはまだ迷いが残っていた。
 その日の夜、春馬は自室でスケッチブックを開いた。鉛筆を握りしめ、机に向かってみる。しかし、ページは白いままだった。
  ——涙の色。
  自分の涙は何色だろうか。考えてみても答えが出なかった。最後に泣いたのはいつだったかも思い出せない。
  部屋の外から父の声が聞こえた。
 「春馬、塾のテキストはやったのか?」
 「……まだ」
 「受験生なんだから、遊んでる暇はないぞ」
  その言葉に胸がちくりと痛む。絵を描くことは“遊び”なのだろうか。春馬はスケッチブックを閉じ、机の上に置いた。