六月六日、化学準備室には不思議な匂いが立ち込めていた。雅史と恭子が机いっぱいに試験管やフラスコを並べ、調合を繰り返していたからだ。
 「この比率だと色が濁るな」雅史が小さくつぶやき、メモに記録する。
 「じゃあ、青を一滴だけ減らしてみましょう」恭子が提案する。
  二人が取り組んでいるのは、“光で輝く涙色インク”の開発だった。文化祭当日に壁画を一際印象的に見せるため、光に反応して色が変わる特殊なインクを使いたかったのだ。
  春馬たちが見守る中、雅史は新たな溶液を作り、白い紙に試し書きをした。
 「どうだ?」勇希が身を乗り出す。
  光を当てると、その線は淡い青灰色から虹色に変化した。
 「……きれい」愛理が小さな声を出した。
  しかし、インクはすぐににじみ、紙が波打った。
 「まだ安定しないな」雅史が眉をひそめる。
 「でも、もう少しで完成しそうだよね?」春馬が言う。
 「あと何回か試せば、きっと」恭子は笑った。
  深夜まで試行錯誤が続いた。雅史の指は絵の具と薬品で汚れ、恭子の髪には絵の具のしぶきがついていた。
 「これで最後だ」雅史が息を整え、調合した液体を紙に落とした。
  光を当てた瞬間、淡い青灰色の線が柔らかく輝き、涙の雫のようにきらめいた。
 「……できた」恭子が目を潤ませた。
  春馬も思わず声を上げた。
 「涙色インク、完成だ!」
 完成したインクを前に、雅史は試験管を掲げて言った。
 「これで安定性も確保できた。温度変化や湿度にも耐えられるはず」
  恭子がうなずく。
 「すごいよ雅史くん、これで作品がもっと特別になるね」
  春馬は壁画に向かってインクを試した。淡い青灰色が滑らかに広がり、光を浴びると虹色に変わる。
 「……本当に涙みたいだ」春馬の声は少し震えていた。
 「泣いたあとに光る、そんな色だな」勇希が笑った。
  愛理はそっとインクを指先に触れ、空を見上げた。
 「ねえ、これって……お母さんのカメラで撮ったらもっときれいに残せるかも」
  春馬はその言葉に頷いた。
 「そうだな、文化祭当日は愛理のカメラで記録しよう」
  作業を終えた雅史は椅子に座り込み、肩で息をしていた。
 「三日間ほとんど寝てないんじゃない?」しおりが苦笑する。
 「まあね。でも、結果が出せてよかった」
  恭子が微笑んだ。
 「努力は裏切らないね」
  春馬も笑い返した。
 「このインクで仕上げたら、きっと誰かの涙を動かせる。そんな気がするよ」
  夜遅く、全員で美術室を後にした。星空の下、春馬は拳を握った。
 ——これで、一歩前に進める。
 六月七日、涙色インクを使った試し塗りが始まった。春馬が壁の中央に一筆入れると、インクはなめらかに広がり、光を浴びて虹色に輝いた。
 「これ……ほんとにすごい」愛理が息を呑む。
 「完成した作品が見たくなるだろ?」勇希が笑った。
  しおりも足を止め、壁画を見上げた。
 「こんな色、今まで見たことない……」
  雅史は照れくさそうに肩をすくめる。
 「いや、材料の特性が良かっただけだよ。俺は組み合わせただけ」
 「それでも、作ったのは雅史くんだもの」恭子が優しく微笑んだ。
  春馬はインクの乾き具合を確かめながら言った。
 「この色は、泣いて立ち上がったときの気持ちみたいだ」
 「泣いたあとに前を向ける……そんな色だね」愛理が頷く。
  そのとき、春馬はふと思い出した。
 ——最初は、ただ“最後の文化祭を残したい”だけだった。でも今は違う。この仲間と作ること自体が、もう大切な思い出になっている。
  涙色インクが乾くと、光はさらに柔らかく揺らめいた。まるで誰かの涙を包み込み、未来へ導いているようだった。
 「よし、このインクで仕上げよう」春馬は迷いなく言った。
  仲間たちの顔に笑顔が広がった。