六月一日の夜、校舎には誰もいないはずだった。だが、隠し画室からは小さな灯りが漏れていた。
  春馬、愛理、しおり、雅史、勇希、恭子の六人が集まり、黙々と筆を動かしていた。
  愛理は壁画の中央に描かれる“涙の瞳”に、淡い青を重ねていた。
 「この色、光が差すみたいに見えるね」
 「泣いたあと、少しだけ前を向ける色にしたかったんだ」春馬が答えた。
  恭子は別の机で古い資料を広げていた。卒業生が残した未完成の下絵と当時の文化祭記録。その中には“涙は未来を映す”という言葉が書かれていた。
 「ねえ、この資料にあった言葉、今回の解説パネルに入れたいな」
 「いいじゃないか」勇希が頷いた。「過去と今をつなぐ言葉になる」
  しおりは時間を確認すると、少し眉をひそめた。
 「もう二十三時よ。そろそろ終わらないと」
 「あとちょっとだけ」春馬は筆を動かし続けた。
  その姿を見て、しおりはため息をついたが、何も言わなかった。
  夜の校舎はひっそりとしていた。窓の外では街灯が弱い光を放ち、遠くで夜行列車の音が響いている。
  春馬はふと、自分たちが描いている絵を見つめた。涙を流すその瞳は、どこか笑っているようにも見えた。
 ——泣くことは終わりじゃない。始まりなんだ。
 春馬は筆を置き、壁に寄りかかった。目の前の壁画はまだ未完成だが、全体の構図が見えるようになってきていた。
 「休憩しよう」愛理がペットボトルを差し出した。
 「ありがとう」
  キャップを開けながら、春馬は愛理の手の甲についた絵の具に気づいた。
 「ずっと塗ってただろ。手、真っ青だぞ」
 「いいの。だって楽しいもん」愛理は笑った。
  その言葉に春馬は小さく息を吐いた。
 「俺さ、前まで決断できなくて、みんなに迷惑かけてばっかりだった」
 「でも今は違うよね?」愛理が首をかしげた。
 「……まあ、少しは」
  向かいの机では恭子がまだ資料を読んでいた。
 「これ見て。昔の卒業生たち、この下絵を“未来へ残す涙”って呼んでたみたい」
  その言葉にしおりが笑った。
 「じゃあ、今の私たちも未来に涙を残してるってわけね」
  勇希は肩を回しながら言った。
 「眠いけど……悪くないな。こういうの」
  春馬は頷き、スケッチブックに一言書き加えた。
 『涙は未来を映す』
  時刻は深夜零時を過ぎていた。誰も帰ろうと言い出さないまま、ただ静かに筆を動かし続けていた。
 時計の針が午前一時を指したころ、ようやく全員が筆を置いた。
 「今日はここまでにしよう」春馬が言うと、誰も反対しなかった。
  しおりは足場のロープを確認し、照明を落とした。
 「明日も朝からだしね。片付け終わったら帰ろう」
  その声は少し疲れていたが、どこか誇らしげだった。
  恭子は資料をファイルにしまいながら微笑んだ。
 「みんなの色が少しずつ形になってきたわね。完成したら、きっと誰かの心を動かせる」
 「そうだといいな」春馬は壁画を見上げた。まだ途中なのに、そこには確かに命のようなものが宿り始めていた。
  外に出ると、夜空には星が瞬いていた。
 「……星って、涙に似てるね」愛理がぽつりと言った。
 「どうして?」春馬が尋ねる。
 「暗い空の中でも光るでしょ? 涙も同じ。悲しいのに、どこかきれいなんだよ」
  その言葉に、春馬は胸の奥が温かくなるのを感じた。
  寮の前で解散するとき、勇希が大きく伸びをした。
 「よし、明日も全力だな」
 「うん」春馬は頷いた。
  深夜の学び舎に残った静けさの中で、未完成の壁画はひっそりと輝いていた。
 ——涙は未来を映す。そう信じて進もう。