五月二十八日、朝から空気が少し張り詰めていた。今日は教師陣への安全計画の最終報告の日だった。文化祭で廃材を利用することは危険も伴う。許可を得るためには、どんな質問にも答えられる準備が必要だった。
  職員室の前で、しおりが大きく息を吐いた。
 「じゃあ、私が説明してくる」
 「え、俺が行こうか?」春馬が言ったが、しおりは首を振った。
 「リーダーは現場で描いてて。こういうのは嫌われ役のほうが向いてるのよ」
  職員室に入ると、教頭をはじめ数名の教師が待っていた。
 「安全計画について聞こう」教頭の声は硬かった。
  しおりは一歩前に出て、資料を差し出した。
 「足場の固定には二重ロックを使用し、作業者は全員ヘルメットと安全帯を装着します。通路には立ち入り制限を設け、緊急時の避難経路も確保しました」
 「……危険がないと言い切れるのか?」ある教師が眉をひそめた。
 「完全にゼロにはできません。でも、これ以上の対策はありません」
  しおりの声は静かだが、揺らぎはなかった。
  説明が終わると、教師たちは顔を見合わせた。教頭がしばらく考え、うなずいた。
 「わかった。条件つきで許可する。だが何かあればすぐ中止するぞ」
 「はい、責任は私が取ります」
  職員室を出たとき、しおりの表情は少し硬かった。
 「どうだった?」勇希が尋ねる。
 「許可は出た。でも、これで私は“厳しい先輩”決定だわね」
 「いいじゃん、カッコいいよ」愛理が笑った。
 「……嫌われるかもしれないけど、みんなが安全ならそれでいい」しおりは小さく呟いた。
  春馬はそんな彼女の背中を見て思った。
 ——嫌われ役を引き受けられる強さって、俺にはあるだろうか。
 午後、作業場に戻ったしおりはいつもより厳しい表情をしていた。
 「みんな、ちょっと聞いて」
  彼女の声に作業していたメンバーが顔を上げた。
 「今日、教師陣から条件つきで許可をもらった。でも一つでも危険な行動があれば即中止されるって」
 「そんなに厳しいのか?」勇希が驚いた顔をした。
 「厳しいくらいでちょうどいいのよ」しおりは図面を広げ、赤いペンで印をつけていく。
 「足場に乗るのは二人まで。必ず安全帯をつけて。あと、ここにロープを追加で張るわ」
  淡々とした指示に、場の空気が少し張り詰めた。
 「なんか、しおりちゃん怖い……」愛理が小さく呟くと、しおりは少しだけ笑った。
 「嫌われ役は私がやるって言ったでしょ。誰かが厳しくしておかないと事故になる」
  その真剣さに、誰も文句を言えなかった。
  休憩時間、春馬はしおりに声をかけた。
 「ありがとう、しおり。嫌われるかもって言ってたけど……誰もそんなふうに思ってないよ」
 「そう? じゃあいいけど」しおりはペットボトルの水を飲み、視線をそらした。
 「でもね、私は昔からそう。安全第一とか効率重視とか言って嫌われるの、慣れてるの」
 「でも、それで守られてる人もいる」
  その言葉に、しおりは少しだけ笑みを見せた。
  夕方、作業が終わるころにはロープや標識が追加され、作業場は以前よりも格段に安全になっていた。
 「これで事故のリスクは減るわ」
 「しおりさん、やっぱり頼りになるね」雅史が感心した声を上げる。
 「頼りにされるのは嫌いじゃないけど……期待されすぎると、ちょっと怖いのよ」
  その言葉を聞いて、春馬はまた一つしおりの強さを知った。彼女は恐怖を抱えながらも前に進んでいる。
 ——俺も、そうなれるだろうか。
 五月二十九日から、しおりはさらに厳しくなった。
 「足場に登る前に必ず点検! ヘルメットは顎紐まで締めて!」
  その声は少しきつく響いたが、誰も反論しなかった。しおりの目が本気であることを、全員が知っていたからだ。
  あるとき愛理が筆を持ったまま足場に上がろうとした。
 「愛理、待って!」しおりが鋭い声を上げた。
 「え?」
 「安全帯、つけてないでしょ。そんな状態で落ちたらどうするの」
  愛理は顔を赤くし、慌てて安全帯を装着した。
 「ごめん……」
  しおりは小さくため息をつき、言葉を和らげた。
 「いいのよ。でも、私は嫌われてもいいから、絶対に誰もケガさせない」
  その言葉を聞いて、春馬は胸の奥が熱くなった。嫌われ役を買ってでも守ろうとする彼女の強さは、本当に格好よかった。
  作業終了後、勇希が笑いながらしおりに言った。
 「なあ、あんた本当に嫌われ役だと思ってる?」
 「そうでしょ?」
 「いや、みんな感謝してるよ。少なくとも俺は」
  愛理も頷き、恭子も柔らかい笑みを浮かべた。
 「しおりさんの声があると安心できる」
  しおりは少しだけ顔を赤くし、背を向けた。
 「……ありがと」
  その背中は、少しだけ軽くなったように見えた。
  春馬はその光景を見て、心に決めた。
 ——俺も、守るために嫌われるくらいの覚悟を持とう。