五月二十三日の夜、春馬は居間でスケッチブックを広げていた。壁画のラフデザインを描きながらも、頭の片隅には五月二十四日の進路相談のことがひっかかっていた。
  そんなとき、台所から父の声が飛んできた。
 「春馬、ちょっといいか」
  父は仕事帰りでまだスーツ姿だった。疲れた顔をしていたが、その目は真剣そのものだった。
 「お前、最近遅くまで学校に残っているそうだな。文化祭の準備だとか」
 「うん、壁画を描くんだ。最後の文化祭だから、みんなで思い出に残るものを……」
 「だがな、進学のことも考えろ。塾もあるだろう。文化祭に時間を割いて成績を落としたら、後で後悔するぞ」
  春馬は言葉に詰まった。父の言うことは正しい。しかし、今だけは譲れない気持ちがあった。
 「でも……これだけはやりたいんだ。後悔したくない」
 「後悔するのはお前だぞ」父の声が少し強くなる。
  居間の空気が重くなった。
 「俺、決めたんだ。最後までやりきる」
 「春馬……」父は息を飲んだが、やがて目を伏せた。「好きにしろ。ただし責任は取れ」
  春馬は立ち上がり、スケッチブックを抱えて部屋に戻った。
  ——決断するって、こんなに苦しいのか。
  布団に入っても眠れず、愛理にメッセージを送った。
 『父さんとケンカした』
  すぐに返信が来た。
 『大丈夫、決めないのも決断って言ったでしょ? でも、春馬くんは決めたんだよね。えらいと思う』
  その言葉に少しだけ胸が軽くなった。
 五月二十五日、家を出るときも父とはほとんど会話がなかった。重い空気を背負ったまま学校に着くと、愛理が待っていた。
 「おはよう。顔色、ちょっと悪いよ?」
 「昨日、父さんとケンカしたんだ」
  春馬が正直に言うと、愛理は少しだけ眉をひそめたが、すぐに笑った。
 「それでも来たんだからえらいよ。逃げないってことだよね」
 「……まあね」
  その日の放課後、隠し画室ではいつものように作業が進んでいた。勇希は足場の確認をし、しおりは安全チェックリストを更新している。恭子は解説文に修正を加え、雅史はペンキの調合をしていた。
 「春馬、色決めたのか?」勇希が声をかけてきた。
 「昨日ので決めた。青灰色に黄色を混ぜたやつでいく」
 「いいじゃん。なんか希望ありそうな色だしな」
  愛理が笑ってスケッチブックを覗き込む。
 「その色、春馬くんらしいと思う」
 「そうかな……」
 「うん。迷ってもいい、でもちゃんと進んでる」
  その言葉を聞いて春馬は父との会話を思い出した。責任を取れと言われたことが頭から離れない。
  ——責任って、どう取ればいいんだろう。
  五月二十五日、春馬はもう一度父と向き合った。
 「父さん、昨日はごめん。でも、俺、本当に最後までやりたいんだ」
 「……責任は取れるのか?」
 「取るよ。成績も落とさないし、塾も休まない。だから、やらせてほしい」
  父はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。
 「そこまで言うならやってみろ。ただし結果は自分で受け止めろ」
  春馬は深くうなずいた。
 「ありがとう」
  胸の奥が少し軽くなった。決断は痛みを伴うけれど、逃げないと決めたことで、少しだけ強くなれた気がした。
 五月二十六日、春馬は以前よりも早く家を出た。少しぎこちなかったが、玄関で父と目が合った。
 「……行ってきます」
  父は短くうなずいた。「行ってこい」
  その一言だけで、胸の奥にあった氷が少し溶けた気がした。
  学校に着くと、愛理たちがすでに作業を始めていた。
 「おはよ、春馬くん」
 「おはよう」
  春馬はスケッチブックを開き、壁画の中央にある“涙の瞳”の色を改めて確認した。青灰色に黄色を混ぜたその色は、昨日よりもはっきりと“決意”を帯びて見えた。
 「春馬くん、昨日お父さんと話せたの?」愛理が尋ねる。
 「うん。ちゃんとやりたいって言った。そしたら……認めてくれた」
  愛理は優しく笑った。
 「よかったね。やっぱり、言わないと伝わらないもんね」
  勇希が木材を持ち上げながら言った。
 「じゃあもう迷わなくていいな。よし、今日は一気に進めようぜ!」
  その言葉にみんなが笑い、作業を再開した。
  夕方、春馬は壁画に新しい色を重ねながら、心の中で父の顔を思い浮かべていた。
  ——俺は責任を取る。ちゃんと最後までやり抜いて、胸を張って報告する。
  筆を置いたとき、少しだけ手が震えていることに気づいた。
  でもその震えは、不安よりも期待のせいだった。