五月二十日、昼休み。春馬は生徒会室の前に立ち、深呼吸を繰り返していた。手には文化祭の追加企画申請書。これを提出すれば、正式に“涙の色”をテーマとした壁画制作が学校公認となる。
  ——やらなきゃ。わかってるのに、足が動かない。
  ドアをノックすると、中にいた副校長が顔を上げた。
 「どうした?」
 「文化祭の追加企画を……お願いします!」
  春馬は差し出した申請書を強く握っていた。
  副校長は書類を手に取り、眉をひそめた。
 「壁画か……それも廃材を利用する? 安全性は確保できるのか?」
 「はい! 安全管理はしおりが担当します。強度は雅史が検証済みです。全員で責任を持って進めます!」
  自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
  副校長はしばらく沈黙し、やがて小さく笑った。
 「そこまで言うなら認めよう。ただし、期限内に完成させること。途中で放棄するのは許さない」
 「……ありがとうございます!」
  春馬は深く頭を下げた。
  放課後、美術室に集まったメンバーに報告すると、愛理が目を輝かせた。
 「やったね、春馬くん!」
  勇希は笑いながら春馬の背中を叩いた。
 「決断できるじゃん。やればできるんだな」
  しおりは書類を確認し、淡々とした声で言った。
 「よかった。でもこれで後戻りはできないわよ」
  雅史はメモを取りながら頷き、恭子も静かに微笑んだ。
  春馬は少しだけ照れくさそうに言った。
 「……ありがとう、みんな。これから本気でやろう」
  五月二十日、机に向かった春馬はスケッチブックを開いた。未完成の瞳を描きながら思う。
 ——遅かったけど、やっと決められた。これからは逃げない。
 五月二十一日、春馬は珍しく早く登校した。生徒会室に申請書を提出した翌日の空気は、少しだけ違って感じた。
  美術室に入ると、すでに勇希が木材を並べ、愛理が絵の具を準備していた。
 「お、早いじゃん。やる気出てきたな」勇希が笑う。
 「まあ……昨日決めたから」春馬は照れくさそうに答えた。
  しおりは図面を広げながら言った。
 「文化祭まであと二十日しかない。時間のロスは許されないから、作業手順をきちんと守ってね」
  その声に春馬は小さく頷いた。
  その日の放課後、春馬は再び隠し画室に立った。未完成の瞳を見つめながら、筆を手に取る。
  ——決められない自分を変えるって、簡単じゃない。でも、やらなきゃ。
  筆先がわずかに震えていたが、春馬は深呼吸をして色を置いた。
  背後から愛理の声がした。
 「昨日の春馬くん、ちょっとかっこよかったよ」
 「……何が?」
 「だって、ちゃんと決めたでしょ。ああいうときの決断って勇気いるよ」
  春馬は耳まで赤くなり、視線を逸らした。
 「俺、そんな立派なもんじゃないよ。遅すぎたし」
 「遅いなんて関係ないよ。今ここにいる、それで十分」愛理は微笑んだ。
  その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。
 「ありがとう、愛理」
 「どういたしまして。さ、描こっか」
  春馬はもう一度下絵に向き合い、線を重ねた。遅すぎる決断でも、もう止まらない——そんな思いが筆を走らせていた。
 五月二十二日、春馬は授業が終わると真っ先に隠し画室に向かった。勇希としおり、雅史、恭子、そして愛理がすでに作業を始めている。
 「お、今日も早いじゃん」勇希が笑った。
 「やれるときにやっとかないと、間に合わないから」春馬は筆を取りながら答えた。
  しおりは安全チェックリストを掲げた。
 「通路と照明、異常なし。避難経路も確保した。これで正式に描き始められるわ」
 「さすがしおり」愛理が微笑む。
  春馬は下絵を見上げた。昨日まではためらっていたが、今日は違った。
 「——描こう。もう迷わない」
  みんながそれぞれの持ち場に散り、春馬も色を乗せていく。青灰色に黄色を少し混ぜた“涙の色”は、思った以上にキャンバスに馴染んだ。
  休憩中、恭子が紙コップの水を渡しながら言った。
 「春馬くん、昨日の決断はよかったわ。遅すぎたなんて言わないで。決められたこと自体がすごいんだから」
  その言葉に春馬は小さく笑った。
 「ありがとう……でも、もっと早く動けたらよかったのに」
 「それでも前に進んでる。私はそれで十分だと思う」
  夕暮れ時、窓の外が赤く染まり始めるころ、壁画の中央にある“涙の瞳”が少しずつ色を持ち始めていた。
  愛理が筆を置いて言った。
 「春馬くんの色、いいね。やさしくて、ちゃんと光がある」
 「……そうかな」
 「うん、そうだよ」
  春馬は照れくさそうに笑い、もう一度筆を持った。遅すぎた号令でも、動き出せば景色は変わる——その実感が胸に広がっていた。