四月一日、午後四時半。旭ヶ丘中学校の校庭に、重い空気が流れていた。
  風はまだ冷たいはずなのに、桜の花びらだけが早くも散りはじめている。春馬は、校舎の壁に背を預けて立っていた。教頭の声がスピーカーから響き、全校生徒が静まりかえった。
 「旭ヶ丘中学校は、来年三月をもって閉校し、近隣の三校と統合されます」
  その言葉に、ざわめきが広がった。誰かの「ウソだろ」というつぶやきが聞こえた。春馬は、まるで足元の地面が揺れたように感じた。
  閉校——つまり、この校舎も、部室も、過ごしてきたすべてが無くなるということだ。
  生徒たちはグラウンドに整列している。友達同士で不安げに目を見合わせ、肩を寄せ合う者もいた。だが、春馬は何も言えなかった。目の前の景色が白くぼやけて見え、頭の中は真っ白だった。
  教頭は事務的に話を続けた。
 「理由はご存知のとおり、少子化と予算削減のためです。校舎の解体は来年の四月から開始されます」
  春馬は、その場で動けなくなった。
  絵画部の部長という肩書きを持ちながら、春馬は即断することが苦手だ。何かを決めようとすると、胸の奥が苦しくなり、時間ばかりが過ぎていく。
  隣から声がした。
 「……どうするの?」
  自然体で話しかけてきたのは、同じ絵画部の愛理だった。彼女は肩までの黒髪を耳にかけ、淡い色のパーカーを着ている。目を細めて桜を見上げていた。
 「どうするって……何を?」
 「私たちの部室。最後に何か残すとか、考えないの?」
  春馬は答えられなかった。愛理はそれ以上問い詰めず、校舎のほうを見て、ふっと笑った。
 「じゃあさ、明日、美術室で話そ。まだ桜が散りきらないうちに、やれること考えよ」
  その声は、妙に柔らかくて重たかった。春馬はただ頷くしかなかった。
  その日の放課後、春馬は一人で部室に向かった。誰もいないはずの廊下は、やけに長く感じられた。壁の掲示板には過去の文化祭の写真が貼られている。その中には、一年前の自分が笑って描いている姿もあった。
  ——この笑顔も、全部なくなるのか。
  春馬は机の上にあったスケッチブックを開いた。そこには途中で止まった下絵があった。誰も見ることのないまま、ここで消えていくのだろうか。
  ペンを握ろうとしたが、手が止まる。何を描けばいいのか、何を決めればいいのか、自分でもわからなかった。
  廊下の窓の外では、風に乗って桜の花びらが舞い込んでくる。春馬はそれをぼんやりと眺め、深く息を吐いた。
  そのとき、部室のドアがノックされた。
 「春馬?」
  愛理の声だった。
 「……入っていい?」
  春馬が返事をする前に、ドアがゆっくり開いた。愛理は小さな布バッグを抱えていた。
 「何してたの?」
 「……絵を、描こうと思って……」
 「そう」
  愛理は机の向かいに腰を下ろし、バッグから一本の鉛筆を取り出した。
 「私も描いていい?」
 「うん」
  しばらく無言で、二人の鉛筆の音だけが部屋に響いた。
  愛理は涙のようににじむ線を描きながら、つぶやいた。
 「最後に残せるもの、あるといいね」
  春馬は言葉を失った。その一言が、胸の奥に重く沈んだ。