七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 夏祭りの翌朝、成美はゆっくりと目を覚ました。まだ早い時間帯なのに、カーテンの隙間から差し込む光はやわらかく明るい。
 布団を抜け出し、窓を開け放つと、昨夜の激しい雨がうそのように空は青く澄みわたっていた。屋根や木の葉にはまだ小さな水滴が残り、光を浴びて宝石のようにきらめいている。雨上がり特有の湿った土と緑の匂いが、ひんやりした風に乗って部屋に流れ込んできた。

 (今日も何かできるかな)
 心の奥にわずかな期待が芽生え、胸が少し熱を帯びる。何もせずに過ごしていたら得られなかったかもしれない感覚だ。

 その期待は、午前中の校内放送で叶えられた。
 〈近隣で土砂崩れが発生しました。急遽、ボランティアを募集します〉
 放送室から流れたのは百合子の声だった。いつもの朗らかさの奥に、少しだけ緊張が混じっている。

 昼過ぎ、学校の昇降口には、成美たち六人が集まっていた。
 「俺らの学校のプールの水を運ぶってよ。消火用に使うらしい」哲平がバケツを二つ抱えながら説明する。
 「バケツリレーか。体力勝負だな」岳は腕を回し、肩の筋肉をほぐした。
 太陽はうなずきつつも渋い顔をしている。
 「でも、あそこ道が狭いし、長時間はきついぞ」
 「それでもやる。……私も行く」
 成美は一歩前に出て言った。その声はわずかに震えていたが、迷いはなかった。

 現場に着くと、斜面の一部が大きく崩れ、道をふさいでいた。泥水が川のように流れ出ており、土と湿った草の匂いが強く漂う。消防士や地元の作業員が泥をかき出しながら声を張り上げている。
 「こっちに並んで!」
 作業員の指示に従い、成美たちは列の最後尾に立った。プールの水を汲んだバケツが、手から手へとリズム良く運ばれていく。

 「リズム合わせろ! いっせーの!」岳の掛け声が響く。
 水しぶきが陽光を受けてきらめき、汗と混ざって頬を伝う。

 最初は余裕のあった成美の呼吸も、すぐに荒くなった。
 (こんなに……きついんだ)
 心臓が早鐘を打ち、手のひらはバケツの取っ手で擦れて痛み始める。足元もふらつき、地面が少し揺れて見えた。

 「成美、大丈夫か?」隣にいた真菜が、心配そうにのぞき込んでくる。
 「だいじょ……ぶ」
 無理に言葉を発したが、その声はかすかに震えていた。

 岳が後ろから声をかける。
 「無理するな! 少し休め!」
 しかし成美は首を横に振った。
 (私だって役に立ちたい。ちゃんと最後まで……)
 額の汗をぬぐい、再びバケツを受け取る。水しぶきが頬に当たり、体はずぶ濡れになりつつあったが、もう気にならなかった。

 一時間が過ぎた頃、成美の腕は鉛のように重くなっていた。肩から肘、肘から手首へと広がるだるさに、指先まで力が入りにくい。呼吸も荒く、胸の奥が熱を持つように脈打っている。

 そんな時、給水係をしていた百合子が駆け寄ってきた。
 「成美、水分補給して!」
 差し出されたペットボトルを両手で受け取ると、そのまま半分以上を一息で飲み干した。
 「ありがとう……」
 「無理はしないでね」百合子の声は驚くほどやさしく、心にしみた。

 列の動きは止まらない。岳が掛け声を張り上げ、太陽と哲平も疲れた顔をしながら必死に動きを合わせていた。真菜は額に汗を浮かべ、泥で汚れた靴のまま何度も踏ん張っている。

 やがて土砂はほぼ取り除かれ、消防隊員が終了を告げた。
 「みんな、ご苦労!」
 その声に拍手が起こり、成美も力なく手を叩いた。

 だがその瞬間、膝が崩れそうになった。視界がぐらりと揺れる。
 「だから言っただろ、無理するなって」岳がすぐに成美の肩を支えた。
 「でも……最後までやりたかったんだ」
 成美は苦笑しながら息を整えた。その表情には疲労と、ほんの少しの達成感が混ざっていた。

 帰り道、手足は鉛のように重く、靴の中で足がじんじんとしびれていた。だが心は軽かった。
 (役に立てた……みんなと一緒に)

 夕暮れ、学校の屋上に集まった六人は太陽が撮影したドローン映像を見返した。
 映像の中には、一列に並んでバケツを渡し合う自分たちの姿が映っている。泥で汚れ、汗にまみれた顔は必死そのものだが、どこか誇らしさがあった。
 「すげえ……俺たち、がんばってるな」哲平が笑う。
 「成美、顔真っ赤だぞ」岳がからかう。
 「うるさいな……」成美は照れくさそうに顔をそむけた。
 笑い声が夜風に乗って広がっていく。屋上を吹き抜ける風は冷たく、汗ばんだ肌に心地よかった。

 その夜、成美は夢ノートを開いた。
 〈体力なくても役に立てることがある〉
 その言葉を書いた瞬間、胸の奥に温かさが広がり、不思議と眠気がすぐに訪れた。

 翌日、学校に着くと、廊下で百合子が待っていた。
 「昨日のボランティア、お疲れさま。放送部で取り上げることになったんだ」
 百合子はいつもより少しだけ得意げに笑っている。
 「え、そんな大げさにしなくていいよ」成美は頬を赤らめ、視線をそらした。
 「でもね、先生が言ってたの。『ああいう時に動ける生徒は誇らしい』って」
 その言葉に、成美は照れくさく笑った。胸の奥がふっと温かくなった。

 教室に入ると、太陽と哲平が机に顔を伏せていた。
 「どうしたの?」
 「筋肉痛……」哲平が弱々しい声をもらす。
 太陽も腕をさすりながら苦笑した。
 「ドローンばっかいじってる俺が体力勝負とか無謀だったわ」
 岳が二人の肩を軽く叩く。
 「でも役に立ったろ。映像、すごく良かったし」
 「まあな」太陽は少し誇らしげに笑った。

 放課後、真菜に屋上へ呼ばれた成美は、そっと差し出された写真を受け取った。
 「これ、昨日の写真」
 写真には、バケツリレーの列を背後から撮った光景が映っている。
 全員が懸命に動き、その中央で笑顔を見せている自分の横顔があった。泥だらけで髪も乱れているのに、その表情は驚くほど明るい。
 「……私、こんな顔してたんだ」
 「うん。ちゃんと前を向いてたよ」真菜が柔らかく微笑んだ。

 その夜、成美は机の上にその写真を飾った。
 胸の奥に温かいものが広がる。
 (私は、ちゃんと動けた。ちゃんと笑えた)

 そこへ母が部屋に入ってきて写真をのぞき込んだ。
 「いい顔してるね」
 「……うん、みんなのおかげだよ」
 母はしばらく成美を見つめ、それから小さく頭を撫でた。
 「成美、無理はしなくていいけど……その気持ちは大事にね」
 「うん」成美はこくりとうなずいた。

 夢ノートを開くと、昨日の言葉に続けて書き足した。
 〈私を支えてくれる人がいる。だからまた動ける〉
 ペンを置いた時、胸の痛みはもう恐怖ではなかった。
 それは、生きている証のように思えた。

 翌朝、校門で岳が待っていた。
 「おはよう。……昨日、ちゃんと休めたか?」
 「うん、もう平気」
 「そうか」岳は安心したように笑い、鞄から小さな紙袋を取り出した。
 「これ、疲労回復にいいって聞いたから」
 中にはレモン味の飴が入っていた。
 「ありがとう」成美は思わず笑顔になった。

 その日一日、胸の鼓動は穏やかで、息苦しさもなかった。
 (こうして、少しずつでも強くなっていけたらいい)
 夕方、成美は再び夢ノートを開き、そっと書き足した。
 〈もっと生きたい。みんなと笑っていたい〉