七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 八月十四日。
 昼間の熱気をたっぷりと抱え込んだ空気がまだ町を覆っていた。
 坂を下りた先にある商店街は、赤と橙の提灯がゆらゆらと揺れ、通り全体を温かな色に染めていた。夕暮れ前の空にはまだ白い雲が残り、少しずつ紺色へと変わっていく。湿気を帯びた風が頬をなで、遠くでは太鼓の音がリズムを刻んでいる。

 「うわ、もうこんなに人がいる」
 百合子が目を丸くした。人の波に押されて少し肩をすくめる姿が、普段の落ち着いた彼女とは違って新鮮に見える。

 成美は濃紺の甚平を着ていた。真菜が前日に細かくサイズを直してくれたおかげで、肩口も裾も自分の体にすっとなじむ。袖を通したときに感じた少し硬い新しい布の感触が、今は体温になじんでいる。下駄の歯が石畳をコツコツと打つたび、胸の奥にくすぐったいような緊張と期待が混じった。

 「成美、似合ってるな」岳が笑いかける。
 「ありがと……なんか、ちょっと恥ずかしい」
 自分でも頬が熱いとわかる。真菜は横で満足げに頷いた。「でしょ? これ、おばあちゃんが作ったやつなの。去年より丈を詰めたからぴったりなはず」
 「……うん、すごく着やすい」成美は小さく笑った。

 そんな会話をしていると、哲平が立ち止まった。
 「よし……絶対に取るぞ、あのクマのぬいぐるみ」
 視線の先には射的の屋台。提灯の灯りに照らされた棚の一番奥で、ふわふわの茶色いクマのぬいぐるみがこちらを見つめている。

 「大人気ないなあ」太陽が肩をすくめ、からかうように笑った。
 「いいんだよ。これは成美へのお土産だから」
 その言葉に、成美の心臓がどくんと鳴った。顔が一気に熱を帯びる。
 「おお、告白みたいじゃん!」百合子がわざと大きな声で言い、通りすがりの子どもが笑って振り返った。

 哲平は真剣な表情で銃を構えた。屋台の射的銃は軽い木製で、少しだけ頼りない。けれど哲平の腕は微動だにしない。
 「よし、いけ!」太陽が声を上げる。
 一発目――コルク弾はまっすぐ飛んだが、景品棚の手前をかすめて落ちた。
 「あー、惜しい!」周囲の子どもたちから声が上がる。
 「もう一回!」哲平は小さく息を整え、引き金を引いた。
 乾いた音とともに弾がぬいぐるみの足元を直撃し、クマは棚から前のめりに転がり落ちた。

 「やった!」哲平が思わずガッツポーズ。拍手と歓声が起き、屋台の店主まで「お見事!」と笑った。
 「はい、これ」哲平が成美に差し出す。
 「ありがとう……大切にするね」
 腕に抱いたぬいぐるみは柔らかく、少し日向の匂いがした。

 通りの反対側ではヨーヨー釣りの屋台が賑わっている。水面に浮かぶカラフルなヨーヨーが揺れ、光を反射してきらめいていた。
 浴衣姿の真菜はその前に立ち、釣り糸を手に取って構えた。
 「去年はすぐ切れちゃったんだよね。今年はリベンジ」
 「俺がコツ教えようか?」岳が横にしゃがみ込む。
 「やってみる!」真菜の目がきらきらと輝く。

 岳は声を落として言った。「力を入れすぎないで、そっと引き上げる。水面から出すときに焦らないこと」
 真菜は集中した表情で息を止め、糸を少しずつ持ち上げた。赤い水玉模様のヨーヨーがゆっくりと宙に浮かび、太鼓のリズムと重なるように揺れる。
 「できた!」真菜が跳ねるように喜び、岳も親指を立てた。成美は思わず拍手を送った。

 百合子はラムネ屋台で六本の瓶を買ってきた。ビー玉がカランと鳴り、シュワッとした音とともに泡が弾ける。
 「こうやってみんなで回るの、初めてだよね」百合子が笑う。
 「そうだな。なんか修学旅行みたいだ」太陽が瓶を掲げ、ゴクリと一口。
 冷たい炭酸が喉を滑り落ちていく音に、成美は小さく笑った。「おいしい……」

 遠くで花火の試し打ちの音が響いた。低い重低音が空気を震わせ、通りの人々が一斉に空を見上げる。
 「屋上で見る予定だったのにね……」成美がぽつりとつぶやいた。
 空には厚い雲。湿った風がさらに強まり、頬に当たる空気がひんやりと変わっていく。

 岳が成美の肩にそっと手を置いた。
 「まだ終わってないさ。花火はまた見られるよ」
 その言葉は、強がりではなく本気の響きを帯びていた。
 「うん……」成美はかすかに笑みを返した。

 その瞬間、ポツリと冷たいものが頬を打った。続いて肩にも胸元にも、いくつもの水滴が落ちてくる。
 「雨か!」百合子が小さく叫び、周囲の人々もざわめき立つ。
 提灯の光が雨粒を照らし、小さな光の帯を作っていた。太鼓の音は急にやみ、人々は屋根のある商店街のアーケードへと駆け込んでいく。

 「急げ!」太陽が声を上げると、成美たちも慌てて走った。
 下駄が石畳を打つ乾いた音と、雨が路面を叩く軽やかな音が混ざり合い、夏祭りの賑わいは一瞬で別の騒がしさへと変わった。

 屋根の下に滑り込んだ成美は肩で息をした。濃紺の甚平の袖口に小さな水滴が散り、ひんやりと肌に張り付く。
 「残念だな、せっかくの花火が……」哲平が肩を落とした。腕に抱えたクマのぬいぐるみだけが無事なのを確認すると、少し安心した顔を見せる。
 「でも、これも思い出になるよ」真菜が雨粒で濡れた前髪を払って微笑んだ。
 「延期すればいいだけだろ。なあ、岳?」太陽が前向きに言った。
 「そうだな」岳はうなずき、成美の顔をじっと見た。
 「またチャンスあるから、そのときは必ず一緒に見よう」

 成美は驚きつつも、そのまなざしに胸が温かくなるのを感じた。
 「……うん」

 外の雨は次第に強まり、アーケードの屋根を打つ音がリズムを変えていく。
 提灯の赤い光が雨粒に反射し、路面に映った光が揺らめいて美しい模様を描いた。祭りの喧騒は遠のき、人々はそれぞれの帰路へと足を向けていく。

 成美は肩を落としながらも、心の奥では不思議とあたたかい感情があった。
 (また見ようって言ってくれた。だから大丈夫)

 帰り道、濡れた路面には提灯の光が揺れて映り込み、まるで夜空の星を足元に散らしたようだった。
 成美は抱えたクマのぬいぐるみをぎゅっと胸に押し当て、小さく笑みを浮かべた。

 その夜、自宅に戻った成美は、まだ少し湿った甚平を脱いでハンガーにかけた。
 クマのぬいぐるみを机の上に置き、タオルでやさしく拭きながら、今日のことをゆっくり思い返した。
 ――射的での哲平の真剣な表情、真菜がヨーヨーを釣り上げたときの跳ねるような喜び、百合子がラムネを差し出してくれた時の笑顔。
 みんなの笑い声と、雨に追われて走ったあの一体感。

 机の引き出しから夢ノートを取り出す。
 〈花火をみんなで見る〉
 その文字を指でなぞり、横に小さく書き足した。
 〈必ず叶える〉
 ペン先からインクが紙にしみて広がり、思いの強さがそのまま形になったようで、胸がじんわりと温かくなった。

 翌日。
 学校に着くと、百合子が廊下で待っていた。
 「花火、残念だったね。でも次は絶対成功させよう!」
 明るい声に、成美は自然と笑みを返した。
 「うん。ありがとう」

 太陽はすでにドローンの編集に取りかかっており、タブレットの画面を見せながら熱弁をふるう。
 「このカットをつなげて、当日までに映像を完成させる!」
 岳もまた職員室に行き、屋上の使用許可を相談してくれるという。
 「延期になった分、もっといい映像にしようぜ」
 全員の気持ちが同じ方向を向いているのを感じて、成美の胸が熱くなった。

 その夜、成美は机に置いたクマのぬいぐるみを見つめた。
 (私は一人じゃない。必ず叶えよう)
 深呼吸すると、胸の奥にあった不安が少しだけ溶けていった。

 以前なら、こんなことがあればきっと落ち込んで布団にもぐり込んでいただろう。
 でも今は違う。スマホを開くと岳からメッセージが届いていた。
 〈次の花火はもっとすごい計画にしよう。任せろ〉
 その文字を見て、思わず笑みがこぼれた。

 窓の外には雨上がりの空が広がっていた。雲の切れ間から月が顔を出し、銀色の光が差し込んでいる。
 (きっと叶う。みんなと一緒なら)
 成美はそのままベッドに横たわり、心地よい疲れと高揚感に包まれて目を閉じた。

 翌朝、学校の廊下で太陽が成美を呼び止めた。
 「なあ、昨日の花火の件だけどさ、次はもっと派手にしない?」
 「派手って?」成美が首をかしげる。
 「ドローンで空撮するだけじゃなくて、みんなのメッセージを一緒に映すんだ」
 そこに百合子も合流して笑った。
 「放送室の機材使えば、音楽も合わせられるよ」
 「おお、いいね!」岳が目を輝かせる。

 その日の放課後、図書室に集まった六人はノートを開き、計画を練った。
 「花火の延期は残念だったけど、だからこそ次は完璧にしたい」岳の言葉に全員が力強くうなずく。
 「じゃあ、準備の分担決めようか」真菜がペンを走らせる。
 成美は小さな声で言った。
 「私も……何か作りたい」
 「いいね、成美は何やる?」
 「うーん……メッセージボード作っていい?」
 「任せろ、材料は俺が用意する」哲平が笑顔で答える。

 帰り道、夕空は少しずつ晴れ上がり、遠くに薄紫の雲が漂っていた。
 (次こそ絶対に、みんなで花火を見よう)
 成美の胸に強い決意が灯った。