七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 八月に入ったある朝、琴瀬の商店街はいつもより早くざわついていた。
 まだ開店前のはずの通りに、すでに店主たちの声が響いている。軒先を掃く竹ぼうきの音、脚立を開く金属音、ビニール袋がはためく軽快な音が交錯していた。
 「夏祭りの準備、今年は人手不足なんだってさ」真菜が、日差しを避けるように帽子を押さえながら言った。
 「だからボランティア募集の張り紙があったんだな」岳は頷き、作業服の袖をまくる。「よし、今日は気合い入れるぞ」
 太陽は笑顔で脚立を担ぎ、哲平は工具ベルトを腰に巻いている。成美も帽子を深くかぶり、百合子は放送委員で鍛えた声を張り上げた。「六人そろったね! 頑張ろう!」

 会長が集まった若者たちを見渡し、にこやかに声を掛ける。「よーし、まずは提灯の取り付けだ。高いところは危ないから気をつけてな」
 「任せてください!」太陽は真っ先に脚立を肩に担いだ。「俺、高いところ得意なんだ」
 「落ちないでよ!」百合子が笑いながら注意すると、周囲からもクスリと笑いが起きた。
 成美は布で机を拭き、並べられた綿あめ機や射的台を磨いていく。額に汗がにじむが、心の奥が軽かった。
 (こういうの、ずっと憧れてたな……ただお客さんとして行くだけじゃなくて、誰かを喜ばせる側にいる時間)

 作業の合間、真菜がこっそりと布を広げた。「これ、成美用の甚平。去年おばあちゃんが作ったやつ、サイズ直ししてみたの」
 「え、いいの?」
 「うん。夏祭りは特別だからね」
 差し出された濃紺の甚平を抱きしめた瞬間、胸がふっと温かくなった。
 「ありがとう……私、これ着て頑張るね」
 真菜が微笑む。「似合うと思うよ。成美、背も伸びたしね」

 昼過ぎ、商店街に太鼓の音が響いた。子ども神輿の練習だ。掛け声に混じって鈴の音が軽やかに響く。
 岳が汗をぬぐいながら成美の手を引いた。「ちょっと見に行こうぜ」
 提灯が連なる通りを抜けると、色とりどりの浴衣を着た子どもたちが掛け声を合わせていた。
 「昔、あれに参加したかったんだよね」成美がぽつりと言う。
 「じゃあ今、準備で参加できてるじゃん」岳が笑う。
 「……そうかな」
 ほんの少し肩の力が抜け、自然な笑顔が浮かんだ。

 午後は屋台の組み立て。木の香りとペンキの匂いが混じり合う中、哲平は器用に釘を打ち、太陽は電球を取り付けていく。百合子は延長コードの接続をひとつずつ確認し、声を張り上げた。「こっちは通電OK!」
 「ねえ、この看板の色、ちょっと寂しくない?」真菜が首をかしげる。
 「じゃあ塗り直そう!」成美はペンキを受け取り、真菜と二人で筆を動かした。塗料の匂いが立ち込め、手元には明るい黄色が広がっていく。

 途中、商店街の店主たちも手を貸してくれた。「若い子が来てくれると助かるよ」と八百屋の主人が笑う。「あんたたちのおかげで今年は早く終わりそうだ」
 その言葉に胸が温かくなる。(私も役に立てているんだ)

 夕方、作業を終えた商店街は朝とは別世界になっていた。
 赤や青の提灯が風に揺れ、木の香りが残る新しい屋台が整然と並んでいる。通りを吹き抜ける風が涼しく感じられた。
 成美は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。(こうして何かを作り上げるのって、すごく嬉しい)

 帰宅後、真菜が渡してくれた甚平の裾を自分で少しだけ縫い直した。「これでみんなの役に立てる気がする」胸の奥に小さな誇らしさが生まれた。
 その夜、布団に入ったあとも昼間の光景がまぶたに焼きついていた。(明日も、あの商店街に行きたいな)わくわくとした鼓動が広がり、眠りに落ちる瞬間も笑顔だった。

 翌朝も商店街へ。今日は屋台の商品づくりだ。
 百合子はわたあめ用の砂糖を計量し、哲平はヨーヨー釣りの水槽に空気を入れている。
 「成美、この袋詰めお願い」真菜がラムネ菓子を差し出す。「任せて」成美はリズムよく袋詰めを進める。
 岳は会場案内板を描いていた。絵心のある彼の筆は迷いがなく、迷路のような通りを分かりやすく描いている。「すごい……プロみたい」「いや、落書きの延長」岳が照れたように笑う。

 昼休憩中、太陽がドローンで上空から映像を撮った。「祭り当日、この映像流そうぜ」「いいね、きっと盛り上がるよ」成美の目も輝いた。
 午後、全体の進捗確認を終えた会長が言った。「今年は準備が早く終わったな。みんなのおかげだ」
 その言葉に、全員の顔が自然とほころぶ。

 帰り道、成美は甚平を抱きしめた。(私も誰かを助けられたんだ)それだけで、手術への不安が少し薄れた気がした。

 夜、夢ノートを開き、新しいページに書いた。
 〈手術前にやりたいこと〉
 ・夏祭りでみんなと屋台巡り
 ・甚平を着て写真を撮る
 ・ドローン映像を見る
 ペンを置いたとき、胸が軽くなった。(未来を諦めないって、こういうことなんだ)

 次の日、真菜が成美の縫った甚平を見て驚いた。「すごい、ぴったりだよ!」「これで祭りも大丈夫」岳が笑って親指を立てた。
 午後、商店街の路地裏でふと立ち止まった。風に揺れる提灯が遠い未来の景色のように見えた。「成美?」後ろから岳が呼ぶ。「うん、なんでもない」成美は振り返り、笑顔を作った。(私、もっとやれる。明日もきっと)

 その晩、夕食時に母が言った。「今日も商店街行ってたの?」「うん。みんなで準備してきた。楽しかったよ」母は少し驚いたように微笑む。「成美がそんなふうに言うの、久しぶりだね」「……そうかも」その言葉に成美は小さく笑った。
 夜空を見上げると、遠くで花火の練習音が響いていた。(来週は、きっともっときれいに見える)未来を想像すると、不安よりも期待の方が大きくなっていた。