七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 夏休み初日、成美は海岸の入り口に立っていた。
 朝から容赦なく照りつける日差しは、舗装された道を白く染め、立ち上る陽炎が視界を揺らす。湿った潮風が頬に当たるが涼しさはなく、むしろじっとりと汗を増やすだけだった。胸の奥で心臓が早く鼓動を打ち、息をひとつ整えようと深呼吸をする。

 視線を上げると、空一面がどこまでも澄んだ青で、雲は白い布を広げたように淡く漂っていた。遠くでカモメの声がひびき、潮の香りが肺の奥に届く。その匂いは、幼い頃に父と母と来た思い出を呼び覚ます――波打ち際で裸足になって走り、笑い転げ、海水で濡れた髪が頬に貼りついた日のことを。

 「暑い……でも、やるしかないな」
 横で岳が首にタオルを掛け、軍手をきゅっと引き締めていた。汗が光る額をぬぐうと、にかっと笑う。彼の表情は、これから待つ作業さえ遊びに変えてしまうような明るさだった。
 今日は町の海岸清掃ボランティアの日。夏休み初日からの肉体労働にためらう同級生も多いなか、成美たちは自主的に集まった。

 太陽はドローンではなく大きなゴミ袋を抱え、背中には小さなスコップを差している。真菜は白い麦わら帽子をかぶり、袖の長いシャツで日焼け対策をしていた。哲平は水筒を二本も肩から提げ、軍手の指先を何度も握りしめて準備を確かめている。百合子は放送委員で鍛えた声量で、「みんなー! がんばろー!」と大きく声を張り上げた。
 その明るさに成美の口元も自然にゆるむ。

 足を踏み出すと、砂の粒が靴の中に入り込み、きゅっ、きゅっと音を立てた。砂浜を覆う熱が靴底を通じてじんわりと足裏を熱する。波打ち際まで来ると、やっと涼しい風が頬をかすめていった。

 拾い上げる空き缶やペットボトルは意外に多く、汗をぬぐいながらの作業になった。潮の音、風が草を揺らすざわめき、遠くの海水浴客の笑い声――夏の音があちこちで響き、体は重いのにどこか気持ちは軽かった。

 「ここ……昔、よく来たな」
 思わず呟く。視線の先には小さな入り江と平たい岩場。父と母と三人で、バケツを手にして砂の城を作った記憶がよみがえる。濡れた砂を積み上げ、波にさらわれ、崩れては作り直した。笑い声が風に溶けるように響いていたあの夏。病気を意識する前の、全力で走り回っていた自分の姿が胸の奥でまぶしく光った。

 「成美、これ見て!」
 岳の声で現実に戻る。彼が砂の中から掘り出したのは、手のひらほどの缶ケースだった。
 「なにそれ?」
 「なんか埋まってた。錆びてるけど、まだ開くよ」

 手渡された缶は、海風にさらされた年月の分だけ茶色く変色し、ふたの縁に砂が詰まっていた。力を込めてふたを外すと、中から色あせた紙が出てきた。震える指先で広げると、幼い字でこう書いてある。
 〈大人になったら宇宙ひこう士になる〉
 隅には、宇宙服を着た小さな人の絵が描かれていた。

 「……これ、私が書いたやつだ」
 声が震える。胸の奥から何かがこみ上げ、目の奥がじんわり熱くなる。幼いころ、この場所で夢を語り合ったことを思い出した。父と母が笑って「その夢、いいね」と言ってくれたことも。

 「宇宙飛行士か。いいじゃん!」太陽が笑い、哲平も「カッコいいじゃん」と肩を叩いた。
 「でも……もう、その夢は無理だし」
 下を向く成美の肩に、岳が手を置いた。
 「無理じゃない。少なくとも、その気持ちは消えてないだろ?」
 その一言に、胸の奥が少し軽くなった。「……うん」

 作業は続き、百合子が両手いっぱいにゴミ袋を抱えて駆け寄ってきた。
 「見て、こんなに拾ったよ!」
 その笑顔につられて、成美の頬にも自然な笑みが浮かぶ。

 しばらくして休憩時間になり、皆で日陰に腰を下ろした。真菜が差し出した麦茶はひんやりと冷たく、乾いた喉を一気に潤していく。
 「成美、子どもの頃に夢埋めてたんだね」真菜が穏やかに言った。
 「うん。……忘れてたけど」
 紙に描かれた宇宙服の絵を見つめると、不思議と胸の奥が温かくなった。

 岳が腕を組み、笑いながら言った。
 「だったら、今の夢も書こうよ。手術終わったらの夢」
 「……まだ考えたことない」
 「考えるチャンスだよ」
 その言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。

 再び作業を始めるころには、海岸は見違えるほどきれいになっていた。流木は端に寄せられ、砂浜の模様までくっきりと見える。汗で前髪が頬に貼りついていたが、成美はそれを気にもせず歩いた。
 「よし、記念に写真!」太陽がドローンを起動した。プロペラの音が高く響き、機体が空へと舞い上がる。そのレンズに映るのは、みんなの笑顔だった。

 帰り道、成美は再び缶を見つめた。(この夢は、ここに置いていった私の一部なんだ)胸の奥にあった重しが少しだけ軽くなっていく。

 家に戻ると、缶を机に置いて眺めた。
 「宇宙飛行士か……」
 笑ってしまう。体の弱い自分には遠すぎる夢だと思っていた。

 夕飯のあと、母が台所から顔を出した。
 「今日、楽しかった?」
 「うん。……タイムカプセル見つけたんだ」
 母は驚き、そして目尻を下げた。「ああ、覚えてるよ。小さい頃、一生懸命埋めてたね」
 その声に胸が熱くなる。

 部屋に戻ると、夢ノートを開いた。
 〈手術が終わったら、もう一度この海に来る〉
 〈そしてみんなと星を見たい〉
 書き終えた瞬間、涙がにじんだ。(まだ終わりじゃない。私の時間は、ここからだ)

 その夜、心臓の鼓動は静かで、眠りも深かった。

 翌日、岳からメッセージが届いた。
 〈昨日の缶、宝物だな。写真データ送る〉
 添付された空撮写真には、海と笑顔の仲間たちが映っていた。成美はその写真をスマホの壁紙に設定する。

 学校でその話をすると、百合子が笑った。
 「次は何する? まだ夏休み始まったばかりだよ」
 太陽が手を挙げる。
 「ドローンの動画、編集して上映しようぜ。図書室のプロジェクター使ってさ」
 「いいね!」岳が即座に賛成する。
 真菜はメモ帳を取り出し、スケジュールを書き込み始めた。

 その輪の中心で、成美は気づく。(手術までの時間を数えるだけじゃない。積み重ねるんだ、私たちの時間を)

 夜、母に缶を見せると、懐かしそうに微笑んだ。
 「覚えてる? 小さいころ、ここに何か埋めるって騒いでたの」
 「覚えてないけど……その時の夢だったみたい」
 母は成美の頭を撫でた。
 「いい夢だね。きっと叶うよ、形は違っても」

 その言葉に胸がじんわりと温まった。成美は再び夢ノートを開き、追加で書き込んだ。
 〈将来、誰かを笑顔にできる仕事をする〉
 ペン先が止まったとき、窓の外には海風が吹き抜けていた。書き終えた瞬間、自分でも驚くほど心が軽くなった。