七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 期末試験前夜、教室には参考書とプリントが散らばり、重たい空気が漂っていた。
 成美は机に突っ伏し、鉛筆を握ったまま動かない。

 「だ、大丈夫? 寝ちゃった?」
 百合子が覗き込み、明るい声を出す。彼女は放送委員の仕事で鍛えたのか、場の空気を軽くするのが得意だった。
 「まだ寝てないよ……」
 顔を上げた成美の目は真っ赤で、視線は虚ろだ。

 岳が席を立ち、ホワイトボードに大きく時間割を書き始めた。
 「ほら、集中するぞ! 時間区切ってやろう」
 哲平は腕を組み、「一夜漬けなら任せろ」と不敵に笑う。
 「俺、こういうの得意だから」
 「得意って……」真菜が苦笑する。

 成美は数学の公式を暗記しようとするが、数字が目の前でぐにゃりと歪む。
 (だめだ、頭に入らない)
 焦りと悔しさで目が熱くなる。

 太陽がドローンのカタログを閉じ、成美の隣に座った。
 「無理すんなよ。別に満点取る大会じゃないし」
 「でも……」
 声が震えた。大きな手術を控えている自分にとって、普通のことを普通にやるだけでも精一杯だった。
 「普通にやりたいだけなのに……」

 ぽつりと漏れた言葉に、岳が静かに答える。
 「結果より過程だよ。頑張ったっていう経験の方が、きっと力になる」

 百合子が机を軽く叩く。
 「じゃあさ、ミニテストやろ! 五問だけ!」
 その明るさに、成美は少し笑った。

 百合子が問題を書き出す間、成美は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
 鉛筆を握る手に少し力が戻る。

 ミニテストが始まると、岳が時計を見ながら声をかける。
 「よし、一問目終了まで三分!」
 哲平が後ろから小声で答えを唱えているのが聞こえ、思わず笑ってしまう。
 五問を終えるころには、さっきまでの重たい空気が嘘のように軽くなっていた。

 「はい、答え合わせ!」
 百合子が明るく仕切り、答えを読み上げていく。
 三問正解。成美は自分でも驚いた。
 「やったじゃん!」真菜が嬉しそうに手を叩く。
 「……ありがとう」
 胸がじんわり温かくなった。

 その後は交代で教え合いながら勉強を進めた。
 哲平は暗記カードを器用にめくり、要点を簡潔に説明する。
 太陽は「休憩用に」とお菓子を机に並べ、集中が切れそうになると冗談を言って場を和ませる。
 岳は時間配分を管理し、百合子は声を掛けて励まし続けた。

 成美は心の中で呟いた。
 (こんなふうに、みんなと一緒に何かするの、久しぶりだな)

 時計が二十二時を回ったころ、全員がぐったりと椅子にもたれた。
 「よし、今日はここまでにしよう」岳が言った。

 帰り際、太陽が成美の肩を軽く叩いた。
 「なあ、頑張ってるなって思った」
 「え?」
 「だってさ、普通にやりたいだけって言ってただろ? それ、もう叶ってるじゃん」
 その言葉に、成美は目を丸くした。

 その夜の教室は、いつもと違う雰囲気をまとっていた。窓の外では夏の夜風がブラインドをわずかに揺らし、カーテンの影が床に長く伸びている。天井の蛍光灯が白々と光り、紙の擦れる音と鉛筆の走る音だけが響いていた。

 成美は何度目か分からないほど深呼吸を繰り返し、ノートを開いた。数式を追う視線の先で、数字がまた歪みそうになるたびに、隣から聞こえる百合子の声が救いになった。
 「大丈夫、焦らなくていいよ。ここ、一緒に解こう」
 彼女の声は不思議と温かい。学校放送で何度も耳にしているトーンだけれど、こうして近くで聞くと、もっと柔らかい。

 哲平は真菜のノートを覗き込み、ペンを指先でくるりと回した。
 「ほら、この解き方だと早いんだ。コツはここ」
 淡々とした説明なのに、妙に説得力がある。
 太陽はドローンカタログを机の端に置き、コンビニで買ったラムネ菓子を一粒ずつみんなに配っていた。
 「ほら、糖分補給。これで頭も回るって」
 「お菓子ばっかりじゃ逆効果でしょ」真菜が笑う。
 「でもちょっと元気出た」成美がつぶやくと、太陽がにっと笑った。

 岳はホワイトボードの前に立ち、時間割を見ながら全体の進行を仕切っていた。
 「よし、この範囲はあと二十分で終わらせよう。できたら次は暗記タイムだ」
 その声が自然と場を引き締めていく。

 ふと、成美は自分のノートに映る影を見た。ペンを持つ指先が少し震えている。――怖いのだ。手術のこと、未来のこと、全部が重くのしかかっている。
 (それでも今、みんなといる。この時間をちゃんと大事にしたい)

 ミニテストが終わったあとも、成美は集中し続けた。百合子は間違いを優しく指摘し、真菜は「ここ、イラストで覚えたらいいよ」と図解を描いてくれた。哲平は「暗記カードの順番変えると覚えやすいぞ」とアドバイスをくれる。太陽は時折ギターアプリを鳴らし、変なメロディで笑わせてくる。

 時計の針が二十二時を指したとき、全員が椅子にもたれかかってため息をついた。
 「終わった……」真菜が小声でつぶやく。
 「お疲れ!」岳が手を叩いた。「でも明日で終わりだからな」

 成美はその言葉に、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。誰かと一緒に頑張るだけで、こんなに景色が違って見えるなんて。

 帰り際、太陽が成美の肩に軽く手を置いた。
 「なあ、今日の成美、なんか頼もしかった」
 「え?」
 「普通にやりたいだけって言ってたろ? それ、もう叶ってるんだって」
 成美は返事に詰まり、ただ笑った。

 家に帰ると、机の上の参考書を開く手が自然に動いた。昨日までの重苦しさはなく、ページの数字が頭の中にすんなり入ってくる。
 (ひとりじゃないって、こんなに力になるんだ)

 翌朝、試験開始のチャイムが鳴る。答案用紙を前にした成美は、深呼吸して鉛筆を握った。緊張はある。でも不思議と怖くない。
 難しい問題に出会っても、昨日の仲間の顔が浮かび、自然と集中できた。

 終了のチャイムが鳴り、答案を提出した瞬間、口元がゆるむ。
 昼休み、岳たちが集まってきた。
 「どうだった?」岳が聞く。
 「……できたよ。全部じゃないけど」
 「十分だろ」太陽が笑う。「昨日、徹夜してたら今ごろ撃沈だぞ」
 「そうそう、みんなでやったのが効いたね」百合子が頷く。
 哲平が小さくガッツポーズをした。
 「じゃ、打ち上げやろうぜ。結果出てからでもいいけど」
 「賛成!」真菜が手を挙げる。

 成美はその光景を眺めながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
 (普通の毎日って、こんなに嬉しいものなんだ)