七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 放課後の図書室は、静かでどこか懐かしい匂いが漂っていた。紙の擦れる音と鉛筆の走る音が、規則正しく空気に混じっている。窓の外には茜色に染まった校庭が広がり、運動部の掛け声だけが遠くで聞こえていた。
 成美は机に肘をつき、頬杖をつきながら外の光をぼんやりと見つめていた。昼間の熱気がまだ残り、空気は少し重い。髪の先が汗で首筋に貼り付き、無意識に指でほぐす。

 背後で椅子の脚が床を擦る音がした。
 「ここ、空いてる?」
 振り返ると岳が立っていた。制服の胸ポケットにはシャープペンが差し込まれ、手には真新しいスケッチブックを持っている。彼の額には、部活を終えたばかりのような薄い汗が光っていた。

 「うん……」
 成美は机の上の本を端に寄せて、空いたスペースを作った。岳はスケッチブックを開き、表紙に勢いよく「夢の計画ノート」と書き込む。
 「昨日の続きな」
 「え、まだやるの?」
 「当たり前だろ。花火だけじゃ終わらないだろ?」

 岳は笑いながらページをめくり、二枚目に線を引き始めた。
 「やりたいこと、片っ端から書こうぜ。全部できなくても、書くこと自体が大事だから」
 その熱心さに、成美は少し戸惑った。自分は、来学期の大手術のことで頭がいっぱいで、未来のことなんて考えられなかった。

 「……思いつかない」
 「じゃあヒントな。例えば海で泳ぐとか、友達とおそろいの写真撮るとか」
 「海か……」
 かつては家族と何度も行った場所。でも病気が悪化してからは、家と学校の往復ばかりになってしまった。

 「成美の小さい頃の夢とかないの?」
 問いかけられて、ふと頭に浮かんだのは小学生の頃。友達と秘密基地を作った日、空を見上げながら「大人になったら宇宙飛行士になる」と言った自分の声だった。
 「……宇宙飛行士になりたかった、かな」
 「いいじゃん!」
 岳は目を輝かせて、その言葉をスケッチブックに大きく書いた。「宇宙飛行士」。

 「でも、もう無理だし」
 「無理とか言うなよ。夢は自由なんだぜ」
 その言葉に胸がちくりと痛む。今の自分に、そんな自由があるだろうか。

 しばらく沈黙が続いたが、岳は空気を切り替えるように言った。
 「じゃ、さしあたってできそうなこと書こう。夏休みにどっか探検とか」
 「探検?」
 「町の外れに遊歩道あるんだろ? 海沿いの。そこ、みんなで行こうぜ」
 岳の目は真剣だった。
 「……わかった」
 気づけば笑っていた。少しだけ、先のことを考えてもいいのかもしれない。

 そこへ、真菜が図書室に入ってきた。眼鏡の奥の目がきょろきょろと動き、二人を見つけて微笑む。
 「二人とも、何してるの?」
 「夢の計画立ててる」岳が説明すると、真菜はくすりと笑った。
 「じゃあ、スケッチブック貸して。表紙にイラスト描いてあげる」
 美術部でもないのに絵が上手いと評判の真菜は、迷いなくペンを走らせる。

 数分後、表紙には星空と花火のイラストが浮かび上がった。
 「わぁ……」
 成美は思わず声を漏らした。
 「これで完成。叶いそうな感じ、出たでしょ」
 真菜の言葉に、岳は満足そうにうなずく。
 「これ、みんなで一緒にやろうな」
 その「みんな」という言葉が、成美の胸の奥をじんわりと温かくした。

 翌日、成美は昼休みに屋上へ向かった。強い風が髪を乱し、夏空の青さが目にまぶしい。
 誰もいないと思った屋上には、すでに岳がフェンスにもたれていた。
 「来ると思った」
 「なんで?」
 「なんとなく」
 岳は笑い、ポケットから折りたたんだ紙を取り出す。
 「見ろよ、昨日の計画、もうみんなに話した」
 「えっ!」
 「太陽と哲平も賛成してくれてさ。放送委員の百合子も協力してくれるって。面白くなるぞ」
 成美は驚きつつも、心の奥で嬉しくなった。
 「勝手に決めて……」
 「怒ってる?」
 「……ちょっとだけ。でも、ありがとう」
 岳はにやりと笑って、フェンス越しに空を見上げた。
 「夏って、あっという間だよな」
 「そうだね」
 成美は胸に負担をかけないように深呼吸し、その景色を目に焼きつけた。

 午後の授業が終わり、再び図書室。今度は太陽と哲平も加わっていた。
 「夢ノートか。おもしれーな」太陽はドローンのカタログを広げ、目を輝かせて言った。
 「これで海の上、撮影したら絶景だぞ」
 「そんなの本当にできるの?」哲平が眉を上げる。
 「任せろって。俺、集中力だけは自信あるから」
 にぎやかな声に成美は戸惑いつつも笑った。昨日の自分なら、この輪に入れなかったかもしれない。でも今は違った。

 ページには次々と計画が書き加えられていく。
 ・夏休みに海沿い探検
 ・屋上で花火
 ・おそろいの写真撮影
 ・ドローン映像制作
 ・時間があれば図書室で合宿勉強

 百合子も最後にやってきて、放送室の鍵の話をしてくれた。
 「花火のとき、音響なら任せてよ」
 その一言で、計画は一気に現実味を帯びた。

 窓の外に視線を向けると、放課後の校庭がオレンジ色に染まり、グラウンドでは野球部の掛け声がかすかに響いていた。
 成美はスケッチブックを抱えたまま、その色に照らされる自分の手を見つめる。少し震えていた。――昨日までなら、未来のことを考えるだけで胸が締めつけられ、机の上に顔を伏せてやり過ごしていただろう。

 「おーい、次は俺の番な」
 太陽が机に腕をのせ、ドローンのカタログを指差した。
 「ここ、この海岸線飛ばしたら絶対きれいだぞ。動画にしたら夏の思い出ランキング一位間違いなし」
 「勝手にランキング作るなよ」哲平が苦笑しながら突っ込む。
 「でも楽しそう」成美が言うと、太陽が得意げに笑った。

 百合子は放送委員の腕章をくるくる指に巻きつけながら、「音響は私がやるわ。マイクとスピーカー、夏祭りで使ったやつ借りてくる」と頼もしい声を上げた。
 「本気だな、みんな」岳が笑い、スケッチブックに新たな線を引く。

 成美はその様子を見て胸の奥が熱くなる。こんなふうに誰かと計画を立てて笑うなんて、いつ以来だろう。
 ページをめくると、イラストの横に大きく書かれた「宇宙飛行士」の文字が目に入り、思わず指でなぞった。小学生の頃、星空を見ながら「宇宙に行くんだ」と無邪気に叫んだ日のことを思い出す。
 (あのときの自分は、こんな未来を想像していたかな)

 そのとき岳がそっと声をかけてきた。
 「成美、何か書きたいこと浮かんだ?」
 「……うん。もう一個だけ」
 ペンを取り、ためらいながら新しいページに書き込む。
 『みんなと一緒に、未来の話をする』
 書いた瞬間、胸の奥で何かが弾けたような気がした。

 真菜がその字を覗き込み、ふっと笑った。
 「それ、いいね。未来の話か……私も混ぜて」
 岳が大きくうなずく。
 「もちろん全員参加な。未来の話ならネタ切れしないぞ」
 みんなが笑い合い、机の上に置かれたスケッチブックに手を伸ばした。

 その夜、家に帰った成美はベッドに寝転び、今日の出来事を何度も思い返した。窓の外には、遠く港の灯りが瞬いている。胸の痛みは相変わらず残っているけれど、その痛みさえも「生きている証」のように思えた。
 (花火だけじゃない。もっとたくさん……もっと先のことだって)

 翌朝、校舎の廊下を歩いていると、岳が手を振って近づいてきた。
 「おはよう。今日の放課後、計画の続きな」
 「もう完成してるんじゃないの?」
 「いや、まだ。未来の話するって書いたろ? それ、今日のテーマな」
 成美は笑ってうなずいた。

 放課後の図書室は、昨日よりにぎやかだった。太陽が海の地図を広げ、哲平は町のイベントカレンダーを調べ、真菜は画用紙にロゴ案を描き、百合子は音響機材のリストを作っていた。
 岳はスケッチブックの中央に太い線を引き、声を張り上げる。
 「よし、じゃあこの夏のテーマは――『みんなで夢を叶える』だ!」

 誰からともなく拍手が起きた。成美も自然に手を打っていた。
 この一瞬が、何よりも嬉しかった。