七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 八月二十五日の夕方、空は灰色の膜を張ったように重く垂れ込め、町全体が息を潜めているかのようだった。遠くで雷鳴が低く響き、その音は腹の底に響くように長く尾を引いた。風がぬるく頬をなで、湿った匂いが肌にまとわりつく。

 放送室の窓ガラスに雨粒が散り、細かな水滴が流れ落ちていく。校舎の壁を叩く雨の音は徐々に強くなり、空気は不安と期待を混ぜ合わせたように張り詰めていた。

 「こんな日に集まろうって言い出したの、誰だっけ」
 哲平が肩をすくめ、半ば冗談のように言った。濡れた靴の先で床を軽く蹴りながら、視線を岳に送る。

 「僕だよ」岳は笑い、両手をポケットに突っ込んだまま肩をすくめた。「だって、今しか書けないことがあると思ったんだ」
 その目は、いつもの軽口とは違う静かな光を宿していた。

 放送室の机の上には白い便箋とペンが几帳面に並べられている。薄い蛍光灯の光が紙面に落ち、そこだけが別の世界のように白く浮かび上がっていた。

 「未来の手紙って、本当に書くの?」真菜が首をかしげる。声は小さいが、瞳は真剣だった。
 「うん。手術を終えた後の自分に、今の気持ちを残すんだ」岳の声は真っ直ぐで、放送室の薄暗さの中でも揺るがなかった。

 成美は便箋をそっと手に取り、紙の感触を指先で確かめた。心臓が鼓動を強め、胸の奥がじわりと熱くなる。
 (未来の私へ……何を伝えたい?)

 ペン先が紙に触れると、ためらいが少しずつ消え、心の奥に眠っていた感情が流れるように出てきた。
 〈術後の私へ。今、私は怖いです。でも、その怖さの中で支えてくれる仲間がいます〉
 〈だから未来の私は、もう少しだけ強くなっていてください〉

 書き終えた瞬間、ペンを持つ手が小さく震えた。
 「成美、読んでみる?」岳が優しく声をかけた。
 「……ううん、まだ。これは手術が終わったら、自分だけで読む」
 成美は便箋を折りたたみ、封筒にそっとしまった。その動作一つひとつに、今の思いを閉じ込めるような重みがあった。

 その時、稲光が窓の外を一瞬だけ真昼のように白く染め上げた。
 「きゃっ!」百合子が肩をすくめ、両手で耳をふさぐ。
 直後、轟音が地面を震わせ、蛍光灯が一瞬ふっと消えてまた灯った。
 「大丈夫、停電じゃない。ただの瞬断だ」哲平が窓の外を見ながら言った。

 成美の胸は急に苦しくなった。
 (鼓動が……早い……やだ、こんな時に)
 机の端に手をつき、必死に呼吸を整えようとしたが、次の瞬間、もう一度雷鳴が落ちた。鼓膜を震わせるような衝撃。

 そして――意識は闇に溶けた。


 意識がゆっくりと浮上すると、成美は自分の部屋の天井を見つめていた。
 (……ここ、家?)
 視線を動かすと、カーテンの隙間から朝の光が差し込み、窓辺の鉢植えが柔らかく照らされている。外では鳥がさえずり、夏らしい明るさが部屋全体に広がっていた。

 体を起こした成美は、昨夜の記憶を必死にたどった。
 (放送室で……手紙を書いて……雷……)
 胸が不安でざわめき、布団をぎゅっと握る。
 「夢……だったの?」

 視線が時計に向かう。針は八月二十五日の朝を示していた。昨日と同じ日付。同じ時刻。
 (いや……これは偶然? でも、そんなはず……)

 制服に着替え、家を出る。朝の空気はすっきりとしていて、昨夜の湿気はまるで嘘のようだ。登校路を歩く足が、どこか宙に浮いたように軽く、しかし落ち着かない。

 校門に差しかかった時、視界の先に岳が立っていた。
 「おはよう、成美」
 ――昨日とまったく同じ声、同じ笑顔。背筋に冷たいものが走った。

 (……同じ……?)
 胸の鼓動が早くなり、言葉が一瞬遅れて出る。
 「お、おはよう」

 授業中、ノートを取りながらも心は上の空だった。
 隣の席の真菜が小声で言う。
 「成美、顔色悪いよ。大丈夫?」
 「うん……ちょっと寝不足かも」
 成美は笑って答えたが、手は震えていた。

 放課後になると、岳が歩み寄る。
 「放送室、来ない? 話したいことがあるんだ」
 (やっぱり……昨日と同じ展開……!)
 喉がからからに渇きながらも、成美は黙ってついていった。

 放送室の扉を開けると、そこには百合子、哲平、太陽、真菜が待っていた。机の上には便箋とペン。まるでコピーしたように同じ光景。

 「未来の手紙を書こうって話なんだ」岳が微笑んだ。
 成美は足を止め、息を呑んだ。
 (これ……絶対に昨日と同じだ!)

 「どうしたの?」岳が心配そうに顔をのぞき込む。
 「い、いや……なんでもない」
 震える指で便箋を取る。だが胸は強く締めつけられていた。

 その時、雷鳴。
 窓の外が光に包まれ、次の瞬間には視界が暗転した。


 まぶたを開くと、視界に飛び込んできたのは、またもや自分の部屋の天井だった。
 「……また?」
 寝起きの頭が一瞬だけ混乱し、その後すぐに強烈な寒気が背筋を走った。

 時計を見れば、針は八月二十五日の朝を示している。
 (やっぱり……同じ日だ)
 心臓が痛いほど早鐘を打ち、全身の毛穴がぞわりと開いた感覚になる。

 (これは夢なんかじゃない。……時間が繰り返されてる? 本当に?)
 動揺を抑えようと、両手をぎゅっと握りしめる。指先に力が入りすぎて白くなり、息が苦しい。深呼吸を何度も繰り返すと、少しずつ胸の奥の鼓動が落ち着いてきた。

 学校に向かう道。
 (また、同じなのかな……)
 通学路に広がる朝の光景さえも昨日の続きに見え、電柱に止まっているカラスの位置まで一致していることにぞっとした。

 案の定、校門の前で岳が待っていた。
 「おはよう、成美」
 笑顔、声の高さ、間合い――すべてが昨日のまま。
 (……三度目だ)
 思わず口の中が乾く。それでも成美は返事をした。
 「おはよう」

 授業中、ペンを握る指に力が入りすぎ、何度も書き間違えそうになる。
 (もしこの一日が何度も繰り返されるのなら……私はどうすればいいの?)
 ノートの端に震える手で書き込んだ。
 〈今日で終わらないなら、誰かを変えてみよう〉

 放課後。
 「放送室、来ない?」岳がまた声をかけてくる。
 (昨日と同じ台詞……でも、私はもう黙ってついていくだけじゃない)
 成美は頷いた。

 放送室に入ると、昨日と同じように五人が揃っていた。机には白い便箋とペン。
 「今日は私、違うことがしたい」成美は声を出した。
 「違うこと?」百合子が驚き、他の皆も顔を見合わせた。

 「うん。……みんなに伝えたいことがある」
 緊張で心臓が胸の奥で弾けそうになる。それでも成美は深呼吸をして続けた。
 「私、手術が怖い。でも、みんなと一緒にいる時間がすごく支えになってる。だから……ありがとう」

 言い終えた瞬間、視界が滲んだ。
 岳がゆっくりとうなずく。
 「……成美、それはすごく大事な言葉だ」
 百合子と真菜も優しく笑みを浮かべ、哲平と太陽も無言で頷いた。

 その時、雷鳴。
 再び視界が白く弾け、耳をつんざく音が響いた。

 ――目を開けると、また同じ朝。

 しかし恐怖よりも、成美の心には新しい感情が芽生えていた。
 (繰り返してるなら、もっと伝えられることがあるはず)

 朝食の席で母に「ありがとう」と言った。母は驚き、少し照れたように笑った。
 学校では太陽に「映像のドローン、すごいよね」と伝えた。太陽は耳を赤くし、少し照れくさそうに笑う。
 (これで終わらない一日でも、少しずつ誰かの気持ちは変えられる)
 成美は次の雷鳴を、もう恐れずに待った。