七十パーセントの朝焼け—坂の町で交わす未来の手紙—

 坂道を登る足が重い。朝の空気は湿り気を帯び、六月特有の甘い草の匂いが鼻先にまとわりつく。遠くでカラスが鳴き、家々の軒先では朝顔がしっとりと露を含んで揺れていた。
 成美は胸の奥に鈍い痛みを抱えながら、一段一段を踏みしめていた。汗がこめかみを伝い、制服の襟元に染み込む。呼吸のたびに肺が重く、酸素が足りない感覚が全身を包んだ。

 「はぁ……っ」
 心臓が早鐘を打つ。耳の奥で自分の鼓動が響くたびに、視界が一瞬だけ揺らいだ。
 音楽室の前で立ち止まり、壁に手をついて深呼吸する。ひんやりしたコンクリートの感触が指先に伝わり、少しだけ現実感を取り戻す。窓の外では、朝の光が海面に反射してキラキラと揺れていた。

 そのとき、視界の端に影が差した。足音が近づき、誰かが隣に立つ。
 「大丈夫?」
 聞き慣れない声だった。

 成美が顔を上げると、そこには短く刈られた髪と真っすぐな目をした少年が立っていた。整った眉の下で光る瞳が、真剣にこちらを覗き込んでいる。彼は差し出した水筒を軽く揺らし、微笑んだ。
 「転校生の岳。今日から二年三組」
 朝日を背にしたその笑顔は、どこか人懐っこい。

 「飲む? 冷えてるよ」
 「ありがとう……でも」
 遠慮しようとした成美に、岳はすぐさま首を振った。
 「無理するなって。顔色、ちょっと悪いよ」

 自分の頬に触れると、汗で濡れてひやりとする。鼓動はまだ速いまま。成美は小さく息を吐き、水筒を受け取って一口飲んだ。麦茶の冷たさが喉を通り抜け、体の奥まで染みわたっていく。

 「……助かった」
 「良かった。てか、ここ、坂きついな。毎日こんなの登るの?」
 「うん……まあ、慣れてるから」

 笑って答えたものの、胸の奥の鼓動はまだ整わない。岳はそれ以上何も言わず、ただ「じゃ、教室行こうぜ」と自然に隣を歩き出した。その歩幅に合わせるのは少し大変だったが、不思議と嫌ではなかった。

 午前の授業が終わり、昼休み。教室のざわめきが少し遠くに感じる。成美は教室の隅にある自分の席で、母が作ってくれた卵焼き入りのお弁当を広げていた。すると、岳が椅子を片手にやってくる。
 「ここ座っていい?」
 「……うん」
 「ありがとう」

 岳は唐揚げを頬張り、箸を器用に動かしながら話し始めた。
 「転校ってさ、結構勇気いるな。昨日まで違う学校にいたんだぜ」
 「そうなんだ……」
 「でもさ、この町いいな。海、きれいだし」
 「そう……かも」
 少し照れくさくて、箸が止まる。窓の外では、青い空と遠くの島影がにじむように見えた。

 岳は目を細めてこちらを見た。
 「成美は、この町好き?」

 即答できず、口の中で言葉を探す。嫌いじゃない。むしろ、大切な思い出が詰まっている。でも――。
 「普通……かな」
 「そっか」

 岳は笑うと、自分のノートを取り出した。カラフルな付箋が貼られ、ページの端は何度も開いた跡があった。
 「これ、見てくれない?」
 中には大きな文字で「夢の計画ノート」と書かれている。

 「夢?」
 「うん。やりたいこと、書いてみようって思って」

 成美は戸惑った。自分の夢なんて、しばらく考えていなかった。来学期に大きな手術がある。その成功率は七割。だから――普通でいたい。目立たず、波風立てず。

 「私……いいよ、そういうの」
 「なんで?」
 「別に、特にやりたいことないし」

 笑ってごまかそうとしたが、岳は首をかしげるだけだった。
 「じゃあさ、もし一日だけ元気で、何してもいいって言われたら?」
 「……一日だけ?」
 「そう。一日だけ」

 想像してみる。頭に浮かんだのは、夏の夜の屋上で見る花火の光景だった。屋上のフェンス越しに広がる夜空、光の粒が弾けて散る光景、みんなの笑い声――。
 「……花火、見たいかな」
 「いいじゃん! それ、ノートに書こうぜ」
 「え?」

 半ば強引にペンを渡される。成美はためらいながらページの一番上に文字を書く。
 「夏祭りの花火を屋上でみんなと見る」
 書き終えると、岳が満足そうにうなずいた。
 「よし、決定」

 岳の笑顔はまぶしくて、成美は思わず視線をそらした。

 放課後、音楽室の前で二人きりになった。窓から差し込む西日が床をオレンジ色に染め、埃が光を浴びて舞っている。
 「今日はありがとう」
 「いや、こっちこそ。……あのさ、友達とか、いる?」
 成美は一瞬言葉に詰まった。
 「幼なじみはいるけど……同じクラスにはあんまり」
 「じゃ、これから一緒に作ろうぜ、そういう時間」

 岳の言葉は軽いようで、どこか真剣だった。
 成美は小さくうなずいた。
 「……うん」

 胸の奥の痛みはまだ消えない。それでも、少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。

 六月の午後は、どこかゆったりと時間が流れる。校庭の隅で鳴くセミの声が、ひときわ大きく聞こえた。授業が終わった後、成美は音楽室の前で立ち止まった。白いドアに耳を近づけると、中からは吹奏楽部の練習音が漏れてくる。トランペットの鋭い音色とクラリネットの柔らかな旋律が交じり合い、夏の空気を震わせていた。

 「今日はありがとう」
 振り返ると、岳が立っていた。窓から差し込む西日が彼の後ろ姿を縁取っていて、輪郭だけが明るく浮かび上がって見える。
 「いや、こっちこそ」
 岳は少し息を切らせていた。どうやら急いで追いかけてきたらしい。

 「……あのさ、友達とか、いる?」
 唐突な質問に、成美は思わず目を瞬いた。
 「幼なじみはいるけど……同じクラスにはあんまり」
 そう答えると、岳は「そっか」と言いながら小さく笑った。

 「じゃ、これから一緒に作ろうぜ、そういう時間」
 その言葉は軽いようでいて、不思議と心の奥に響いた。

 窓の外では海からの風が吹き込み、カーテンを揺らしている。遠くの水平線の向こうでは、夕陽が海面に金色の道を描いていた。成美はその光景に一瞬見とれ、胸の痛みを忘れた。

 「……うん」
 そう答えた自分の声は、小さくてもはっきりしていた。岳はそれを聞いて、安堵したように微笑む。

 ――この町が好きか、と昼に問われたとき、答えられなかった。
 でも、こうして誰かと一緒に過ごす時間は、悪くない。

 成美は足元の影を見つめた。坂道で感じた重さはまだ残っている。それでも、朝に感じた息苦しさは少しだけ薄れていた。

 「明日も、この坂登るんだよな」
 岳が笑うと、成美もつられて笑った。
 「うん、毎日」
 「じゃ、俺も慣れなきゃな」

 音楽室から吹き出すトランペットの高音が、二人の笑い声に重なる。夕暮れの光に包まれながら、成美は胸の奥でそっと思った。
 ――また明日も、登ろう。

 家に帰る道すがら、成美はふとポケットの中のペンを握りしめた。岳が渡したときの温もりが、まだ指先に残っている気がした。
 ノートの一番上に書いた「夏祭りの花火を屋上でみんなと見る」。それは単なる願い事のはずなのに、不思議と胸が高鳴る。

 手術を控えていることを、岳はまだ知らない。だからこそ、あの無邪気な笑顔はまぶしくて、少し怖かった。もし知ったら、彼はどうするだろう。
 ――それでもいい。
 成美は深く息を吸った。六月の夜風が湿った土と潮の匂いを運び、胸いっぱいに広がった。

 窓辺で母が呼ぶ声がする。
 「成美ー、ごはんできたわよ」
 「はーい!」
 返事をすると同時に、階段を駆け上がる足が軽かった。朝とは違う、少しだけ前を向ける自分がそこにいた。