翌日の朝、学校に凪紗の姿はなかった。担任が「体調を崩して休むそうだ」と告げると、教室に小さなどよめきが広がった。
  放課後、煌生は旧校舎の屋上に立っていた。冷たい風が吹き抜ける中、手すりに触れると金属の感触がやけに冷たく感じた。
 「昨日、無理しすぎたんだ」
  独り言のように呟き、ポケットの中のスマホを見たが、凪紗からの連絡はない。胸の奥がざわつき、不安が広がっていく。
  その夜、凪紗の母親から短いメッセージが届いた。
 〈病院に運ばれました。今は安静にしています〉
  画面を見つめたまま、煌生は深く息を吐いた。
  翌日、授業を終えた彼は一人で病院へ向かった。面会時間ぎりぎり、白い廊下を進むと、窓から差し込む夕陽が無機質な壁を赤く染めている。
  病室に入ると、凪紗はベッドの上で笑顔を作った。
 「来てくれたんだ。ごめんね、心配かけて」
  その声はかすかで、笑顔の奥に疲労がにじんでいた。
 「無理するなよ」煌生は椅子を引き寄せて腰を下ろした。
 「体育祭、張り切りすぎちゃったかな」
  凪紗は苦笑し、胸に手を当てる。その仕草に一瞬、苦しさが滲んだが、すぐに笑顔を作る。
 「でも、走ってよかった。あの時、本当に空に触れられた気がしたんだ」
  その言葉に、煌生は返す言葉を失った。
  沈黙の中、窓の外の夕焼けが二人の間を赤く染める。
 「俺、怖かったんだよ」
  不意に口をついた本音に、凪紗が目を丸くする。
 「お前が倒れたとき……どうしていいかわかんなかった」
  その声は震えていた。凪紗はそっと手を伸ばし、煌生の手を握った。
 「ありがとう。私のこと、そんなに思ってくれてるんだね」
  その手は驚くほど冷たく、同時に頼りないほど軽かった。
  診察を終えた医師がカルテを持って入ってきた。
 「しばらく安静にしてください。心臓に少し負担が出ています」
  その言葉に煌生の喉が詰まる。凪紗は笑顔で「はい」と返したが、その指先はわずかに震えていた。
  病院を出た後、煌生は空を見上げた。夕焼けに染まる雲が、どこか遠くに消えていく。
 「俺は……何もできないのか?」
  小さな声が風に消える。
  その夜、彼は屋上に一人で立っていた。グライダーの設計図を広げ、ペンを握る。
 「せめて……夢だけは叶えさせたい」
  心の奥に重く沈んでいたものが、少しずつ形を変えていくのを感じた。
  翌日、煌生は仲間たちに凪紗の容態を伝えた。教室は一瞬、静まり返った。
 「じゃあ、計画はどうする?」拓朗が問いかける。
 「やる。むしろ今だからこそやるんだ」
  煌生の言葉ははっきりしていた。普段なら競争を避ける彼が、初めて前に出ようとしていた。
  麻友が静かに頷く。
 「じゃあ、全体のスケジュールを見直すね。負担を減らして、でも夢は叶える方向で」
  真紀は窓の外を見て言った。
 「今日の空、すごく澄んでるよ」
  その言葉に、みんなの顔が少しだけ明るくなった。
  放課後、彼らは屋上に集まり、試作機を並べて改良点を話し合った。凪紗はいない。それでも、彼女の言葉が頭の中で響いていた。
  夜、煌生は自室で設計図を前に座っていた。机の上には凪紗が描いた「空を飛ぶ」の文字が挟まれている。
 「俺たちがやらなきゃ、誰がやる」
  独り言が静かな部屋に響く。
  スマホが震えた。凪紗からのメッセージだ。
 〈今度、窓から空を見たら泣きそうになった。でも、私は大丈夫。だから翼、完成させてね〉
  短い文章を何度も読み返し、煌生はペンを強く握り直した。
  その夜は一睡もせず、バランスの計算を繰り返した。外は冷たい風が吹いていたが、心はどこか熱かった。
  週末、病院に見舞いに行くと、凪紗は窓辺の椅子に座って空を眺めていた。
 「退屈してないか?」煌生が声をかける。
 「してる。でも、空はずっと見ていられるんだよ」
  笑う彼女の頬は少し痩せ、手首には点滴の跡が痛々しく残っている。
 「屋上の計画、進んでる?」
 「ああ。みんなでやってる」
 「よかった……間に合うといいな」
  凪紗の目が遠くの雲を追いかけている。その視線は切実で、煌生は胸の奥を締めつけられた。
  帰り際、凪紗が言った。
 「ねえ、煌生くん。もし翼が完成したら、私の代わりに一番に飛ばしてくれる?」
 「もちろんだ」
  その答えに、凪紗は安堵したように笑った。
  外に出ると、夕暮れの風が頬を打った。煌生は深く息を吸い、拳を握りしめた。
 「絶対に間に合わせる」
  次の週、凪紗は一時的に退院できた。学校に戻った彼女は、少し疲れた様子ながらも笑顔を絶やさなかった。
 「無理するなよ」煌生が声をかける。
 「わかってる。でもみんなの顔、久しぶりに見たかったんだ」
  放課後、旧校舎の屋上に再び仲間が集まった。
  改良した翼は青空を映し、滑らかなラインを描いている。拓朗が翼のバランスを最終確認し、麻友がノートにチェックを入れる。
 「今日、試す?」真紀が問いかけると、凪紗は少し迷った後、首を振った。
 「今日は見てるだけでいいや。その代わり、絶対に成功させて」
 「任せろ」煌生が答えると、凪紗は静かに笑った。
  発射台にセットされたグライダーは、夕焼けに照らされて黄金色に輝いていた。
 「カウントするぞ! 三、二、一!」
  バネが弾け、翼は空へと舞い上がった。風を切る音が響き、全員の視線が一点に集まる。
  凪紗の頬に涙が伝った。
 「本当に……飛んでる」
  その声は風に溶け、誰も何も言えなかった。
  その夜、凪紗は自宅のベッドで星図を描いていた。手元のペン先が震え、インクの線が何度も途切れる。それでも描くことをやめなかった。
  窓の外には雲ひとつない夜空が広がり、夏の星座がかすかに瞬いている。
 「この空を飛ぶんだ」
  小さく呟き、目を閉じた。
  一方、煌生は机に向かい、凪紗の星図を思い浮かべながら設計図に線を引いていた。
 「どんな形なら、あの空に届く?」
  何度も消しゴムを走らせ、線を引き直す。途中で拓朗からメッセージが届いた。
 〈バネの強度を上げる。明日確認〉
 〈了解〉とだけ返し、再び図面に集中した。
  深夜になっても眠気は来なかった。頭に浮かぶのは、病室で見せた凪紗の微笑みと、涙を浮かべたあの言葉だ。
 「本当に……飛んでる」
  その声が胸を震わせ、ペン先をさらに走らせた。
  翌朝、仲間たちが屋上に集まった。まだ朝靄が残る空気の中、翼の表面は夜露でしっとりと濡れている。
 「今日こそ完成形を確認しよう」拓朗が声を上げる。
  麻友は眠そうな目をこすりながらもノートを広げ、真紀は風速計を構えた。
 「風は西から二メートル。絶好の条件だよ」
  凪紗はベンチに腰掛け、毛布を肩にかけながら静かに見守っている。
  煌生は発射台に翼をセットし、深呼吸をした。
 「行くぞ、さん、に、いち!」
  翼は朝日に照らされ、弧を描いて高く舞い上がった。ゆるやかに旋回し、校庭の端に着地する。
 「成功だ!」拓朗が声を上げ、麻友が笑顔を見せる。
  凪紗は両手で顔を覆い、涙をこらえきれずに嗚咽を漏らした。
 「ありがとう……みんな、本当にありがとう」
  その声に、誰も返事をすることができなかった。ただ全員が黙ってうなずき、同じ空を見上げていた。