五月末、校庭では体育祭の練習が始まっていた。吹奏楽のリズムと掛け声が重なり、春の空気はどこか夏めいている。
凪紗はスタートラインに立ち、心拍計を手首に巻いたまま深呼吸を繰り返していた。
「本当に走るのか?」煌生が声をかける。
「うん、リレー選手に立候補したの。風をもっと知りたくて」
その笑顔は眩しいが、胸に当てた手の動きがわずかに強張っていた。
練習が始まると、凪紗は真剣な表情でバトンを受け取り、一気に駆け出した。軽やかな足取りだが、顔色は次第に赤みを帯び、呼吸が荒くなっていく。
「無理するなって……」煌生は小さく呟いた。
その一方で、煌生は応援団に半ば強制的に参加させられていた。
「お前、声出せ!」「笑顔だ!」
周囲の声に、どうしてもやる気が出ない。競争や勝敗への執着が嫌いな彼にとって、応援合戦は苦手分野だった。
それでも凪紗の背中を見た時だけは、自然と声が出た。
放課後、屋上に戻った二人は無言で風を感じていた。
「走るの、やっぱり好きなんだな」煌生が口を開く。
「うん、苦しいけど気持ちいい。風を切ると、飛んでるみたいで」
凪紗はそう言って笑い、フェンス越しの空を見上げた。
「でもさ、心臓は大丈夫なのか?」
煌生の声は思わず低くなる。凪紗は一瞬だけ視線を落とし、すぐに笑顔を取り戻した。
「平気、ちゃんと医師にも確認したから」
その笑顔に嘘はなかったが、煌生の胸はざわついた。
彼は競争を嫌い、何かに本気になることを避けてきた。だが、凪紗は違う。
彼女の走る姿を見ていると、なぜか自分まで動かされる気がした。
遠くでブラスバンドの音が聞こえ、校庭の砂ぼこりが夕日に染まる。
「ねえ、煌生くん。体育祭、本気で応援してよ」
凪紗の言葉は冗談めいていたが、目は真剣だった。
「……わかったよ」
煌生はその目を見て、自然に答えていた。
体育祭当日、朝から校庭は熱気に包まれていた。テントが並び、観客席には保護者の姿がちらほらと見える。
煌生は応援団のハチマキを締められ、仕方なく声を張り上げていた。
競争は嫌いだ。それでも、凪紗の走る姿だけは目を離せなかった。
リレーの順番が回ってくる。凪紗はバトンを受け取ると、風を切って走り出した。短い髪が揺れ、足音が砂を蹴る。
しかし、第三コーナーを回ったところで彼女の身体がぐらりと揺れた。
「凪紗!」
観客席がざわめく中、凪紗はなんとかゴールまで走り切ったが、その場で崩れ落ちた。
煌生は駆け寄り、肩を抱き起こす。
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫……ちょっと、息が……」
凪紗の声は震えていた。すぐに救護テントに運ばれ、保健室の先生が駆け寄る。
「応援してて……」
運ばれながらも、凪紗は笑顔を見せた。その笑顔に、煌生はなぜか胸が締めつけられた。
昼過ぎ、凪紗は救護テントで横になっていた。額に貼られた冷却シートと、胸に当てられた聴診器。医師が何度も頷きながら言った。
「今日は無理をしないほうがいい。競技はここまでだな」
「はい……」
凪紗は小さく答えたが、視線は校庭のリレーコースに向いている。
煌生は椅子に座り、じっと彼女を見守っていた。
「そんなに走りたかったのか?」
「うん。風を感じると、空に近づける気がするから」
その言葉に、煌生は言葉を失った。
午後の競技が終わり、解散のアナウンスが流れる。煌生は凪紗を家まで送ることにした。
夕暮れの道、二人の影が並んで伸びる。
「今日、怖かったよ」煌生は正直に口にした。
「ごめんね、でも後悔してないよ」
凪紗の声は柔らかく、どこか吹っ切れたようだった。
その背中を見て、煌生は胸の奥で何かが変わるのを感じていた。
家の前に着いた時、凪紗は少し立ち止まり、空を見上げた。
「ありがとう、送ってくれて」
「当たり前だろ。あんなに倒れたら心配する」
凪紗は振り返り、微笑んだ。
「ねえ、煌生くん。私ね、走っている時、本当に飛べるんじゃないかって思うの」
「飛べる?」
「うん、足が地面から離れて、風だけが私を支えてくれてるみたいな感覚」
その瞳はどこか遠くを見ているようで、煌生の胸が締めつけられた。
夜、煌生は眠れなかった。机に向かい、グライダーの設計図を広げる。
「もっと軽く、もっと安定する形に」
手を動かしながら、頭の中では凪紗の走る姿が何度も浮かんだ。
彼女の夢は、ただの気まぐれじゃない。本気で空を目指している。
「俺も……本気でやらなきゃ」
その時、スマホにメッセージが届いた。凪紗からだった。
〈今日はありがとう。次は絶対に転ばないから〉
短い文章に、彼女らしい強さが滲んでいた。
翌日、凪紗は学校を休んだ。グループチャットに「少し疲れが出ただけ」とメッセージが届き、仲間たちは心配しながらも作業を進めることにした。
旧校舎の屋上で、拓朗がバネ強度を調整し、真紀が風向きの記録を続けている。麻友は手帳にスケジュールを書き込みながら小さくつぶやいた。
「無理してたんだね、あの子」
煌生は黙って頷いた。
夕暮れ、煌生は凪紗の家を訪ねた。窓辺に座る彼女は分厚い毛布に包まれていたが、笑顔を見せた。
「来てくれたんだ」
「休んでろって言ったのに」
「じっとしてると落ち着かないんだよ。でも、今日はちゃんと休む」
その目は少し赤かったが、強い光を宿していた。
「ねえ、次はもっとすごいの作ろうね。風だけじゃなく、星まで届きそうなくらいの」
その言葉に、煌生は深く頷いた。胸の奥にあった迷いが消え、代わりに静かな炎が灯るのを感じた。
「約束する。絶対に」
その夜、煌生は一人で設計図を広げ、眠れぬまま朝を迎えた。
三日後、凪紗は学校に戻ってきた。顔色はまだ完全ではなかったが、歩く姿勢には力強さがあった。
「無理するなよ」煌生が声をかけると、凪紗は笑った。
「ありがとう。でももう大丈夫。走らないで済むから」
その軽口に、教室の空気が和らいだ。
放課後、仲間たちは屋上に集合した。新しい設計の翼が完成し、発射台に乗せられている。
「これ、昨日徹夜で仕上げたんだ」拓朗が胸を張る。
「徹夜はだめでしょ」麻友が呆れたように言うと、全員が笑った。
凪紗が翼をそっと撫でる。
「この子、本当に飛べる気がする」
「飛ばそうぜ、今日の風ならいける」煌生は風速計を見て頷いた。
カウントダウンと共に、機体は空へ舞い上がった。夕日に照らされ、白い翼が金色に輝く。
「すごい……!」
凪紗の目に涙が浮かび、頬を伝って落ちた。
「まだ終わりじゃない。もっと遠くに、もっと高く」
その声は震えていたが、確かな意志を帯びていた。
凪紗はスタートラインに立ち、心拍計を手首に巻いたまま深呼吸を繰り返していた。
「本当に走るのか?」煌生が声をかける。
「うん、リレー選手に立候補したの。風をもっと知りたくて」
その笑顔は眩しいが、胸に当てた手の動きがわずかに強張っていた。
練習が始まると、凪紗は真剣な表情でバトンを受け取り、一気に駆け出した。軽やかな足取りだが、顔色は次第に赤みを帯び、呼吸が荒くなっていく。
「無理するなって……」煌生は小さく呟いた。
その一方で、煌生は応援団に半ば強制的に参加させられていた。
「お前、声出せ!」「笑顔だ!」
周囲の声に、どうしてもやる気が出ない。競争や勝敗への執着が嫌いな彼にとって、応援合戦は苦手分野だった。
それでも凪紗の背中を見た時だけは、自然と声が出た。
放課後、屋上に戻った二人は無言で風を感じていた。
「走るの、やっぱり好きなんだな」煌生が口を開く。
「うん、苦しいけど気持ちいい。風を切ると、飛んでるみたいで」
凪紗はそう言って笑い、フェンス越しの空を見上げた。
「でもさ、心臓は大丈夫なのか?」
煌生の声は思わず低くなる。凪紗は一瞬だけ視線を落とし、すぐに笑顔を取り戻した。
「平気、ちゃんと医師にも確認したから」
その笑顔に嘘はなかったが、煌生の胸はざわついた。
彼は競争を嫌い、何かに本気になることを避けてきた。だが、凪紗は違う。
彼女の走る姿を見ていると、なぜか自分まで動かされる気がした。
遠くでブラスバンドの音が聞こえ、校庭の砂ぼこりが夕日に染まる。
「ねえ、煌生くん。体育祭、本気で応援してよ」
凪紗の言葉は冗談めいていたが、目は真剣だった。
「……わかったよ」
煌生はその目を見て、自然に答えていた。
体育祭当日、朝から校庭は熱気に包まれていた。テントが並び、観客席には保護者の姿がちらほらと見える。
煌生は応援団のハチマキを締められ、仕方なく声を張り上げていた。
競争は嫌いだ。それでも、凪紗の走る姿だけは目を離せなかった。
リレーの順番が回ってくる。凪紗はバトンを受け取ると、風を切って走り出した。短い髪が揺れ、足音が砂を蹴る。
しかし、第三コーナーを回ったところで彼女の身体がぐらりと揺れた。
「凪紗!」
観客席がざわめく中、凪紗はなんとかゴールまで走り切ったが、その場で崩れ落ちた。
煌生は駆け寄り、肩を抱き起こす。
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫……ちょっと、息が……」
凪紗の声は震えていた。すぐに救護テントに運ばれ、保健室の先生が駆け寄る。
「応援してて……」
運ばれながらも、凪紗は笑顔を見せた。その笑顔に、煌生はなぜか胸が締めつけられた。
昼過ぎ、凪紗は救護テントで横になっていた。額に貼られた冷却シートと、胸に当てられた聴診器。医師が何度も頷きながら言った。
「今日は無理をしないほうがいい。競技はここまでだな」
「はい……」
凪紗は小さく答えたが、視線は校庭のリレーコースに向いている。
煌生は椅子に座り、じっと彼女を見守っていた。
「そんなに走りたかったのか?」
「うん。風を感じると、空に近づける気がするから」
その言葉に、煌生は言葉を失った。
午後の競技が終わり、解散のアナウンスが流れる。煌生は凪紗を家まで送ることにした。
夕暮れの道、二人の影が並んで伸びる。
「今日、怖かったよ」煌生は正直に口にした。
「ごめんね、でも後悔してないよ」
凪紗の声は柔らかく、どこか吹っ切れたようだった。
その背中を見て、煌生は胸の奥で何かが変わるのを感じていた。
家の前に着いた時、凪紗は少し立ち止まり、空を見上げた。
「ありがとう、送ってくれて」
「当たり前だろ。あんなに倒れたら心配する」
凪紗は振り返り、微笑んだ。
「ねえ、煌生くん。私ね、走っている時、本当に飛べるんじゃないかって思うの」
「飛べる?」
「うん、足が地面から離れて、風だけが私を支えてくれてるみたいな感覚」
その瞳はどこか遠くを見ているようで、煌生の胸が締めつけられた。
夜、煌生は眠れなかった。机に向かい、グライダーの設計図を広げる。
「もっと軽く、もっと安定する形に」
手を動かしながら、頭の中では凪紗の走る姿が何度も浮かんだ。
彼女の夢は、ただの気まぐれじゃない。本気で空を目指している。
「俺も……本気でやらなきゃ」
その時、スマホにメッセージが届いた。凪紗からだった。
〈今日はありがとう。次は絶対に転ばないから〉
短い文章に、彼女らしい強さが滲んでいた。
翌日、凪紗は学校を休んだ。グループチャットに「少し疲れが出ただけ」とメッセージが届き、仲間たちは心配しながらも作業を進めることにした。
旧校舎の屋上で、拓朗がバネ強度を調整し、真紀が風向きの記録を続けている。麻友は手帳にスケジュールを書き込みながら小さくつぶやいた。
「無理してたんだね、あの子」
煌生は黙って頷いた。
夕暮れ、煌生は凪紗の家を訪ねた。窓辺に座る彼女は分厚い毛布に包まれていたが、笑顔を見せた。
「来てくれたんだ」
「休んでろって言ったのに」
「じっとしてると落ち着かないんだよ。でも、今日はちゃんと休む」
その目は少し赤かったが、強い光を宿していた。
「ねえ、次はもっとすごいの作ろうね。風だけじゃなく、星まで届きそうなくらいの」
その言葉に、煌生は深く頷いた。胸の奥にあった迷いが消え、代わりに静かな炎が灯るのを感じた。
「約束する。絶対に」
その夜、煌生は一人で設計図を広げ、眠れぬまま朝を迎えた。
三日後、凪紗は学校に戻ってきた。顔色はまだ完全ではなかったが、歩く姿勢には力強さがあった。
「無理するなよ」煌生が声をかけると、凪紗は笑った。
「ありがとう。でももう大丈夫。走らないで済むから」
その軽口に、教室の空気が和らいだ。
放課後、仲間たちは屋上に集合した。新しい設計の翼が完成し、発射台に乗せられている。
「これ、昨日徹夜で仕上げたんだ」拓朗が胸を張る。
「徹夜はだめでしょ」麻友が呆れたように言うと、全員が笑った。
凪紗が翼をそっと撫でる。
「この子、本当に飛べる気がする」
「飛ばそうぜ、今日の風ならいける」煌生は風速計を見て頷いた。
カウントダウンと共に、機体は空へ舞い上がった。夕日に照らされ、白い翼が金色に輝く。
「すごい……!」
凪紗の目に涙が浮かび、頬を伝って落ちた。
「まだ終わりじゃない。もっと遠くに、もっと高く」
その声は震えていたが、確かな意志を帯びていた。



