図書室の窓際は静かだった。午後の光が差し込み、埃が舞っている。拓実は黙々と資料をめくり、凪紗のスケッチブックに描かれた図を見比べていた。
 「紙飛行機の延長じゃだめだ。もっと揚力を稼ぐための翼がいる」
  拓実がつぶやくと、凪紗は頷いた。
 「どんな形ならいいかな」
 「バードグライダー型だな。軽くて、でも丈夫なやつ」
  真紀は外を見ていた。青い空にゆっくりと流れる雲。
 「風、今日は北東からだよ」
  淡々と告げる声に、凪紗が笑った。
 「やっぱり空が好きなんだね」
 「うん……空を見てると落ち着くの」
  一方、教室の片隅で煌生と拓朗が試作機の強度を確認していた。
 「これ、翼が薄いな。すぐ折れるぞ」
 「でも軽さを優先したんだろ?」
 「バランスだな。軽すぎたら安定しない」
  拓朗は工具を回し、補強用のリブを差し込んだ。
  放課後、全員で旧校舎の屋上に集まった。薄い翼の試作機が夕陽を反射する。
 「今日、初めて飛ばしてみよう」
  凪紗が言うと、全員が頷いた。
  発射台にセットし、カウントダウン。煌生の手がバネを解放した瞬間、機体は空へ飛び出した。しかし、十メートルも飛ばないうちに失速し、屋上の隅に落下した。
 「やっぱり補強が足りないな」拓朗が苦笑する。
 「でも……飛んだよ」凪紗は目を輝かせていた。
  その笑顔に、誰も否定の言葉を返さなかった。
  その日の帰り道、煌生は凪紗の歩幅に合わせて歩いていた。
 「なあ、お前さ……そんなに急いで空に行きたいのか?」
  凪紗は少し考えてから、笑顔で答えた。
 「うん。だって時間って待ってくれないでしょ?」
  その言葉の奥にある重みを、煌生はまだ深く理解できていなかった。
  翌朝、拓朗が早めに登校して補強案を描いていた。
 「これなら強度が増して安定するはず」
  図面を見た凪紗は嬉しそうに手を叩いた。
 「すごい! これなら飛ぶよね?」
 「たぶんな」
  その控えめな答えに全員が笑った。
  昼休み、真紀は屋上で風向きを観測していた。
 「午後から南西の風に変わるよ」
 「じゃあ、今日の試験飛行は放課後決まりだね」
  凪紗は手帳に大きく丸をつけた。
  放課後、再び屋上に集まり、新しい補強を施した試作機をセットした。
 「いくよ、さん、に、いち!」
  煌生の掛け声と同時に機体は力強く飛び出した。前回よりもずっと長く、屋上の端を越えて校庭の方へ滑空する。
 「やった!」凪紗が叫び、両手を挙げた。
  しかし次の瞬間、彼女の顔が一瞬歪んだ。胸を押さえて息を整える仕草に、煌生は駆け寄った。
 「おい、大丈夫か?」
 「うん……ちょっとドキドキしただけ」
  無理に笑顔を作る凪紗を見て、胸の奥にざらりとした不安が広がった。
  その夜、煌生は眠れなかった。机に広げた設計図を見つめ、ペンを握る手が止まる。
 「なんで俺、こんなに必死なんだろう……」
  競争が嫌いで、何かに熱中することを避けてきた自分が、今は夢中になっている。理由は一つしかない。凪紗の笑顔が、どうしても忘れられなかった。
  翌日の放課後、チームは改良案を試すために再び集まった。
 「バランスを変えたから、もう少し安定するはずだ」
  拓朗の言葉に全員がうなずき、試作機をセットする。
 「カウントするよ!」
  凪紗の声は少し掠れていたが、強さを感じた。
 「さん、に、いち!」
  機体は夕陽を浴びて滑空し、これまでで最長の距離を飛んだ。着地した場所は校庭の端近くだった。
 「やった!」
  仲間たちが拍手し、凪紗はその場にしゃがみ込んで息を整えた。
 「無理するなよ」煌生が声をかけると、凪紗は首を振った。
 「平気。飛んでるのを見たら、元気が出た」
  その後も彼らは遅くまで作業を続け、図面の修正や材料の調整を重ねた。夜風が吹き抜ける旧校舎の窓から、遠くの街灯がきらめいていた。
  週末、校庭は部活動の声でにぎわっていたが、旧校舎の屋上は別世界のように静かだった。
 「今日はこれでいこう」
  拓朗が新しい翼の角度を調整し、拓実は重心位置を測る。麻友はノートに進捗を書き込み、真紀は風向きを確認している。
  凪紗は少し離れた場所で胸に手を当て、深呼吸をしていた。
 「無理なら休んでいいんだぞ」煌生が声をかける。
 「ううん。ここにいると元気になるの」
  そう言うと彼女は笑い、発射台に視線を向けた。
  カウントダウン。バネが弾け、機体は空に放たれた。追い風に乗ったグライダーはこれまで以上に高く、長く飛んだ。
 「すごい……」
  凪紗が目を潤ませながら呟いた瞬間、膝が崩れた。
 「凪紗!」煌生が駆け寄り、肩を支える。
 「平気……ちょっとだけ、疲れただけだから」
  その声は震えていたが、瞳だけは輝き続けていた。
  帰り道、煌生は決意する。
 「絶対に完成させてやる」
  その言葉に凪紗は弱く笑った。
 「楽しみにしてるね」
  その夜、煌生は机に広げた図面を見つめていた。手のひらには鉛筆の跡、消しゴムのかすが散らばっている。
 「俺は、何を怖がってたんだろう」
  競争を嫌い、逃げてばかりいた自分。けれど今は、仲間と一緒に目標に向かって走っている。それは知らないうちに心を熱くさせていた。
  翌日、チームは再び屋上でテストを行った。グライダーは安定して長距離を飛ぶようになり、記録を更新するたびに拍手が起こる。
 「すごい! 本当に飛んでる!」凪紗は嬉しそうに笑った。
  その笑顔を見た瞬間、煌生は胸が熱くなった。
  夕暮れ、凪紗は少し疲れた様子でベンチに座り込んだ。
 「もう少しで完成するね」
 「お前のおかげだよ」
  煌生の言葉に、凪紗は小さく首を振る。
 「みんなのおかげだよ。私、一人じゃ何もできなかった」
  その声は震えていたが、瞳は迷いなく輝いていた。
  沈む夕陽の下、彼らは次の試作へ向けて計画を立てた。凪紗の夢に、確かに一歩ずつ近づいている。
  日曜日の朝、凪紗は病院の検査を終えて屋上にやってきた。制服ではなく私服姿で、薄手のカーディガンの袖口を握りしめている。
 「遅れてごめん」
 「いいよ、今日はゆっくりでいい」煌生が答えると、凪紗は少し照れたように笑った。
  拓朗たちは既に次の試作機を組み立てていた。軽量化と強度の両立を目指した新型だ。
 「これならもっと飛ぶはずだ」拓朗が胸を張る。
  真紀は空を見上げて風速を測り、麻友はチェックリストを読み上げる。
 「準備よし」
  発射の瞬間、凪紗は深く息を吸い込んだ。
 「さん、に、いち!」
  機体は美しい弧を描き、校舎の向こうまで滑空した。
 「すごい、ほんとに飛んだ……」
  凪紗の声は震えていた。手のひらを握りしめ、涙がこぼれそうになっているのを煌生は見た。
 「ありがとう、みんな」
  その言葉に全員が顔を見合わせ、自然と笑顔になった。
  その帰り道、凪紗は足を止めて夕焼け空を見上げた。
 「ねえ、もっと遠くに飛ばそう。星に届くくらいに」
  煌生は横で頷いた。
 「やろう。絶対に」