放課後の昇降口を抜けると、空気は昼間の温もりを残しつつも夕暮れの冷たさを帯びていた。煌生は凪紗の後ろを歩きながら、肩に掛けた鞄の重みを感じた。彼女は軽やかな足取りで旧校舎へ向かっている。
 「そんな急がなくてもいいだろ」
 「早く行きたいんだよ、屋上に」
  その声にはせかすというよりも期待が滲んでいた。煌生はため息をつきつつも足を速める。
  屋上に出ると、春風が二人の髪を揺らした。遠くでカラスが鳴き、空は茜色に染まっている。凪紗は胸ポケットから小さな紙切れを取り出した。
 「これ、見て」
  それは手描きの簡単な図面だった。翼の形と発射台の仕組みが書き込まれている。
 「昨日の夜考えてたんだ。これならもっと遠くまで飛ばせるはず」
  彼女の声はどこか誇らしげで、その横顔にはわずかな紅潮が差している。
 「おまえ、ほんとに真剣なんだな」
 「当たり前でしょ。だって、夢だよ?」
  凪紗は笑い、両手を広げて風を抱きしめるように立った。その姿は、まるで飛び立とうとする鳥のようだった。煌生はしばらくその背中を見つめ、言葉を失っていた。
  手すりに寄りかかると、視界の端で凪紗の肩がわずかに上下しているのに気づく。
 「無理するなよ。顔色、あんまり良くない」
 「大丈夫。こうやって風を浴びてると元気になるんだ」
  彼女の笑顔は淡い夕日の中で透けるように見えた。
  屋上を後にした二人は校庭の隅に回り込み、残っていた部材で小さな発射台を組み立てた。煌生が工具を扱い、凪紗は設計図を指差しながら角度を指示する。指先が少し震えていたが、その目は迷いなく輝いている。
 「じゃあ、いくよ」
  凪紗の合図で紙飛行機をセットする。煌生がバネを引き、カウントを始めた。
 「さん、に、いち……」
  解き放たれた飛行機は風に乗り、夕暮れの空をすうっと伸びやかに飛んでいく。二人の視線はその軌跡を追い、しばし沈黙が流れた。
 「……すごい!」
  凪紗は嬉しそうに笑い、手を叩いた。頬にはうっすらと汗が浮かび、その目には涙のような光がきらめいている。
 「やったね」
 「うん、やった。ありがとう」
  その声はかすかに震えていて、煌生は何も言えずにただ頷いた。
  下校途中、街灯が一つずつ灯り始める中で、凪紗がぽつりと言った。
 「ねえ、煌生くんはさ、なんで私のお願いを断らなかったの?」
 「……なんでだろ。たぶん、お前が本気だったからだと思う」
 「そっか。本気だよ、私」
  凪紗は笑みを浮かべたが、その目の奥に少しだけ影が揺れていた。
  その後も二人は何度も試作と発射を繰り返した。風の強さや角度を調整するたびに、紙飛行機は少しずつ遠くまで飛ぶようになった。凪紗は汗を拭いながらも笑顔を絶やさない。
 「ねえ、これが完成したら、もっと大きいのも作ってみたいな」
 「……ほんとに飛ばすつもりなのか?」
 「うん。空を飛ぶって決めたから」
  その目は冗談を言っているときのそれではなかった。煌生は無意識に拳を握っていた。
  帰宅後、机に広げたノートには凪紗の図面を写したスケッチが増えていく。普段なら宿題すら後回しにする煌生が、こんなにも集中しているのは初めてだった。
  夜風が窓から入り込み、ページをめくる音に混じって遠くの犬の鳴き声が聞こえる。ふと視線を上げれば、星が淡く瞬いていた。煌生はペンを置き、小さくつぶやいた。
 「……なんで俺、こんな必死になってるんだ」
  翌日の放課後、凪紗は少し顔色が悪かった。階段を上る足取りが遅くなり、手すりを握る指が白くなっている。
 「無理するなよ。今日は休んだ方が……」
 「平気。屋上に行けば治るから」
  その言葉に説得力はなかったが、煌生は何も言えずに並んで歩いた。
  屋上に着くと、凪紗は大きく息を吸い込み、両手を広げた。
 「ほら、風、気持ちいいでしょ」
 「……まあな」
  その横顔は笑っていたが、胸に当てた手の動きがわずかに震えているのを見て、煌生の胸がざわついた。
 「なあ、どうしてそこまで空にこだわるんだ?」
  凪紗は少し黙り、遠くの空を見たまま言った。
 「小さいころから病院にいる時間が長かったんだ。だから空の下を自由に走ったり、飛んだりすることに憧れてた。……でも、長くは生きられないって言われたから、せめて一度は空に触れてみたいの」
  言葉は淡々としていたが、その指は屋上のフェンスを強く握っていた。
  煌生は返す言葉を見つけられなかった。ただ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。競争が嫌いで何も望まなかった自分と、限られた時間を燃やそうとする彼女。
 「……俺も手伝うよ。最後まで」
  その言葉に、凪紗は振り向いて微笑んだ。涙が光っていたが、笑顔はまっすぐだった。
  それから数日間、二人の放課後は屋上と図書室で埋まった。グライダーの構造を学び、風向きや揚力の計算をノートに書き込み、紙飛行機では試せない仕組みを模型で再現した。
  煌生はふと気づく。いつの間にか、自分が夢中になっていることに。競争は嫌いだと思っていたのに、これは競い合うのではなく、何かを届けるための挑戦だった。
  ある夕方、凪紗が屋上の手すりに寄りかかっていた。頬が少し青白い。
 「大丈夫か?」
 「うん……でもちょっと息苦しいかな」
  そう言いつつも彼女は笑顔を崩さない。
 「無理するなよ」
 「でもね、私、こうやって風を感じていると、本当に飛べそうな気がするんだ」
  煌生はその横顔を見つめ、胸が締めつけられる思いがした。
  帰宅途中、煌生はふと立ち止まった。夕焼けの色に染まる空を見上げ、深呼吸する。
 「俺、ずっと逃げてたのかもしれないな」
  翌朝の通学路、凪紗が笑いながら待っていた。
 「今日もやるよね?」
 「ああ、やろう」
  その返事に凪紗は嬉しそうに頷いた。
  土曜日、二人は校庭の隅で新しい試作機を飛ばした。これまでより重く、翼も広い。発射した瞬間、機体はきれいに浮かび上がり、夕日を受けて光った。
 「やった!」
  凪紗は歓声を上げ、思わず煌生の腕を掴んだ。
 「これなら、本当に届くかもしれない……」
  その瞳は希望で満ちていたが、その光の奥に宿る影を、煌生は見逃さなかった。
  その日の夕暮れ、二人はベンチに腰掛けてジュースを飲んでいた。凪紗の呼吸はまだ少し乱れている。
 「無理させすぎたな」
 「違うよ。楽しかったから」
  凪紗は笑い、空を指さした。
 「ねえ、あそこまで飛ばしたいな。町の外まで、空を越えて」
 「……無茶言うな」
 「無茶じゃないよ。だって、夢だもん」
  その言葉は子どものように無邪気だったが、響きは重かった。煌生はジュース缶を握りしめながら言った。
 「なら、もっとちゃんと作らなきゃな」
  凪紗が驚いたように目を見開き、次の瞬間笑顔を浮かべた。
  帰宅後、煌生は深夜まで机に向かい続けた。計算式と図面がノートいっぱいに書き込まれ、鉛筆の芯が短くなる。途中で母親が声をかけても、彼は手を止めなかった。
  窓の外には三日月が浮かんでいる。煌生は小さくつぶやいた。
 「俺、本気でやるからな」
  翌日、凪紗はいつもよりゆっくりと登校してきた。顔色はまだ青い。
 「大丈夫か?」
 「うん。でも、ちょっと走れないかも」
 「じゃあ、今日は設計だけにしよう」
 「……ありがとう」
  凪紗は微笑んで、スケッチブックを広げた。その中には前日描いた図をさらに改良した案があった。煌生は思わず笑う。
 「おまえ、やっぱりすごいな」
 「だって、時間は待ってくれないもん」
  二人は放課後も屋上で風を感じながら図面を描き続けた。夕暮れの風が頬を撫で、フェンス越しの空が茜色から紫へと変わっていく。
  その時、凪紗が小さな声で言った。
 「もし、完成したら、一緒に飛ばしてね」
 「当たり前だろ」
  煌生は迷わず答えた。その瞬間、凪紗は涙ぐんで笑った。