夜の病室は静かだった。消灯後の薄暗がりに、機械の小さな電子音だけが規則正しく響いている。
 凪紗は手術を明日に控え、静かに眠っていた。顔色は少し青白いが、その寝顔は安らかで、まるで長い旅路の前に一息つく子どものようだった。
 煌生はベッド脇の椅子に座り、膝の上で握った拳をじっと見つめていた。
 (明日、きっと成功する。…いや、成功させなきゃ)
 心臓に負担がかかる手術は危険を伴うと聞いている。それでも凪紗は笑って言った。「もう一度、空を見たい」と。
 扉の外で足音が止まった。拓朗だった。
 「お前、ここにいたのか」
 低い声に煌生は顔を上げる。
 「…帰らないのか?」
 「無理だよ。ここで待ってる」
 拓朗は黙って隣の椅子に腰を下ろした。
 少し遅れて麻友と真紀、拓実も現れた。
 「夜間面会ギリギリなのに、全員集まって…」看護師に軽く注意されるが、誰も動こうとはしなかった。
 「だって、明日で終わりじゃないだろ?」拓実が笑った。
 「そう。むしろ始まりだよ」真紀は窓の外を指さす。そこには星の並びが凪紗の描いた星図にそっくりだった。
 煌生は胸ポケットのスマホを取り出し、凪紗の心音の録音を再生した。
 「このリズム、忘れたくない」
 その鼓動は静かに響き、全員の胸に広がった。
 「明日、ちゃんと伝えような。凪紗に」麻友が小さく頷いた。
 「…絶対、成功するさ」拓朗の声が震えていた。
 翌朝、病院の空気は少し張り詰めていた。
 手術室に向かうストレッチャーの上で、凪紗は弱々しくも笑っていた。
 「行ってくるね」
 その声に、煌生は強くうなずくことしかできなかった。
 「また空で会おうな」
 「うん、約束」
 廊下に残された煌生たちは、しばらく動けなかった。
 真紀は両手を組んで目を閉じ、麻友は深呼吸して平静を保とうとしていた。拓朗と拓実は壁に寄りかかり、拳を固く握り締めている。
 「…待つしかないな」拓実の声は低く、だが芯のある響きだった。
 手術が始まって数時間。病院の待合室には緊張が漂い、時計の針の音さえ響くようだった。
 煌生はポケットの中のスマホを取り出し、昨夜の心音を再生する。
 ドクン、ドクン…。
 「この音、絶対に止まらせない」
 思わず声に出してしまった。麻友がそっと肩に手を置く。
 「大丈夫。あの子、強いから」
 真紀も静かに笑った。「そうだよ。空を飛ぶって言った子なんだもん」
 やがて、手術室のランプが消えた。医師が出てきて深く頭を下げる。
 「手術は成功しました」
 その言葉に、誰もが同時に息を吐いた。
 「よかった…!」麻友が泣き笑いし、拓朗が壁を拳で軽く叩いて喜びを表す。拓実は目頭を押さえ、真紀は「ありがとう…」と呟いた。
 数日後、凪紗は集中治療室から一般病棟へ移された。
 白いシーツに包まれた小さな体はまだ細く、頬は青白い。だが瞳は確かに輝きを取り戻していた。
 「ただいま」
 凪紗が笑うと、全員の胸が熱くなった。
 「おかえり!」と麻友が駆け寄る。
 「まだ走っちゃダメだぞ」拓朗が苦笑しながら肩を支える。
 「無茶はするなよ」拓実の声も震えていた。
 真紀は泣きながら頷き、「空…また見に行こうね」と言った。
 煌生はベッド脇に立ち、言葉を探していたが、結局シンプルに口を開いた。
 「よく…帰ってきてくれたな」
 凪紗は少し首を傾げて微笑んだ。
 「まだ終わってないもん。空、まだ飛んでない」
 その言葉で、全員が思い出した。凪紗が病室で描いた星図、グライダーが夜空に刻んだ軌跡。あれはゴールではなく、スタートだったのだ。
 「また、みんなでやろう。凪紗が見たがってる空、もっと広い空だ」煌生が言うと、全員が強く頷いた。
 夕方、病院の屋上に出る許可をもらった。
 涼しい風が吹き抜け、遠くに夏の入道雲が見える。凪紗は車椅子に座って空を仰ぎ、ゆっくりと深呼吸した。
 「…やっぱり、空っていいね」
 その横顔を見て、煌生の胸に込み上げるものがあった。
 「これからだ。俺たちの空は、まだ始まったばかりなんだ」
 その夜、窓辺で凪紗は小さなノートを広げていた。
 表紙には「空へ届く翼」と書かれている。煌生が覗き込み、「それ…まだ続けてたんだ」と呟く。
 「うん。だって、まだ終わってないから」
 凪紗は描きかけの星図を指差し、「この軌跡、次はもっと遠くまで行くよ」と笑った。
 「じゃあ、俺も勉強するよ。航空工学、本気でやる」
 「それ、絶対いいね」
 麻友たちがスケッチや設計図を積み上げ、真紀は夜空を見上げて呟いた。
 「ありがとう、みんな」
 小さな声が夜に溶けていった。
 翌朝、屋上で五人は並び、紙飛行機を同時に放った。
 白い翼は風を受けて舞い上がり、昨日の光の軌跡と重なるように夜明けの空を滑っていく。
 「またここから始めような」拓実が言い、煌生は深く頷いた。
 胸の奥が熱くなる。未来への恐れはもうなかった。