病室の白いカーテンが微かに揺れていた。窓を通して差し込む夏の夕陽は淡い朱色で、凪紗の頬をほんのりと染めている。
 煌生はその横顔を見つめながら、言葉を探していた。口を開くたびに何かが崩れてしまいそうで、ただ指先でベッドの柵を握りしめるしかなかった。
 「…明日、本当にやるんだな」
 声はかすれていた。凪紗は瞼をゆっくりと上げ、微笑んだ。
 「うん。だって、もう待てないもん。空、見たいし」
 その言葉に胸が痛んだ。わかっている。時間が限られていることを。だが、明日——屋上から北東に向けてグライダーを飛ばす計画だけは、どうしても成功させなければならなかった。
 拓朗も麻友も拓実も真紀も、皆それを理解している。
 「なぁ、痛かったりしたら…」
 言いかけて、やめた。凪紗は首を横に振り、静かに笑った。
 「大丈夫。私の心臓より、あの翼のほうがドキドキしてるよ」
 煌生はその言葉に目を伏せ、深く息を吐いた。自分は競争が嫌いで、何かに必死になることを避けてきた。けれど今は違う。これは勝ち負けじゃない、凪紗の願いを空へ運ぶだけだ。
 翌朝、学校の屋上に四人が集まっていた。拓朗は計測器と工具を抱え、拓実は翼のバランス調整を続けている。麻友は使用許可の書類を胸に抱きしめ、真紀は空を見上げて風向きを記録していた。
 煌生はみんなの動きを見ながら、昨夜の凪紗の笑顔を思い出していた。
 「発射台、固定完了!」
 拓朗の声に全員が顔を上げる。
 「発射角度は?」と拓実。
 「北東方向、十五度上げ。風は穏やかだ」真紀が答える。
 麻友がみんなを見渡し、小さな声で言った。
 「…ほんとに、これでいいのかな」
 その声は、昨夜病室で聞いた凪紗の弱々しい呼吸と重なった。
 「いいんだよ。あいつ、絶対見てるから」煌生が断言する。
 その言葉に誰も反論しなかった。
 校舎の時計は夜に向かって針を進めていた。夕暮れとともにグライダーは最終調整に入り、蓄光塗料が夕陽の色を受けて薄く輝く。
 「これが…凪紗の光になるんだな」真紀が呟いた。
 「絶対、届かせよう」煌生は両手を強く握った。
 夜の帳が降りる頃、校舎の屋上は静けさに包まれていた。
 煌生たちは一列に並び、光を帯びたグライダーを中央に置く。翼には凪紗が描いた星図が写し取られている。
 拓朗がカウントを始めた。
 「…3、2、1…!」
 全員が力いっぱい押し出した瞬間、グライダーは滑らかに空気を切り裂き、夜空に舞い上がった。
 白い残光が弧を描き、ゆっくりと北東の方向へ滑空していく。
 誰も声を出せなかった。息を呑み、ただ目で追い続けた。
 煌生の耳には、ポケットに入れたスマホから流れる凪紗の心音が響いていた。
 ドクン、ドクン…そのリズムに合わせるように、光の軌跡が夜空に脈を刻んでいるように見えた。
 麻友が手で口元を覆い、涙を堪える。
 「…届いた」真紀が震える声で言う。
 拓実は目を閉じて、深く息を吐いた。
 「もう、止まらないな」拓朗の目も潤んでいる。
 煌生は両手を胸の前で組み、そっと呟いた。
 「凪紗、見てるか…俺たち、やったよ」
 光の残像はやがて消えたが、その瞬間、心の中には確かな温もりが残っていた。
 グライダーが見えなくなった後も、誰一人として動こうとしなかった。
 屋上の風が、ほんのりと温かく感じられる。
 麻友が小さな声で言った。
 「凪紗…本当に、空に届いたんだね」
 真紀がうなずき、空を指差した。
 「ほら、あの星の並び…凪紗が最後に描いた星図そのままだよ」
 煌生はゆっくりと目を閉じ、記憶の中の笑顔を呼び起こす。
 病室での小さな指切り、初めての紙飛行機、そして「空を飛ぶ」と書いた白い紙――。
 胸の奥がきゅっと締めつけられる感覚に、思わず両目から涙が溢れた。
 拓実がその肩を軽く叩いた。
 「泣いていいさ。俺たち、最後まで逃げなかったんだから」
 拓朗も頷き、力強く言った。
 「これからだって逃げない。俺たちは、もうあの時みたいに立ち止まらない」
 煌生は涙を拭い、深呼吸をした。
 「俺…航空工学をやろうと思う」
 その言葉に、全員が顔を上げた。
 麻友がにっこりと笑った。
 「いいじゃない。凪紗も絶対喜ぶよ」
 真紀も涙を拭きながら、空を見上げたまま言った。
 「私も…ずっと空を見続ける。凪紗の分も」
 屋上を吹き抜ける風が、まるで凪紗の返事のように優しく頬を撫でた。
 屋上に残った五人は、誰ともなく折り紙を取り出した。
 凪紗がよく折っていた、あの白い紙飛行機。
 一枚、また一枚と、手の中で形を変えていく。
 「もう一度、やろう」
 拓朗が先に言った。
 「凪紗が望んだ空は、終わらないだろ?」
 誰も反論しなかった。
 煌生も、ゆっくりと折り紙を折った。
 指先の動きは覚えている。何度も、何度も、凪紗と一緒に練習したから。
 折り目をつける音が、静かな夜に響いた。
 完成した五つの紙飛行機が、屋上の端に並ぶ。
 煌生は一歩前に出て、言葉を絞り出した。
 「ありがとう、凪紗」
 五人同時に、紙飛行機を夜空に向かって放った。
 月光を浴びて、淡く輝く飛行機たちは高く舞い、凪紗の笑顔の残像のように消えていった。
 誰も口を開かず、ただ空を見上げていた。
 やがて麻友が笑った。
 「ねえ…またここで集まろうよ」
 拓実が答えた。
 「そうだな。これで終わりじゃないしな」
 煌生は深く頷いた。
 胸の奥に、もう恐れも後悔もなかった。
 ただ一つ、未来を選び取る勇気だけが残っていた。
 風が頬を撫で、夜の匂いを運んでくる。
 煌生はゆっくりと息を吸い込み、胸いっぱいにその空気を感じた。
 もう、何かから逃げている自分はいなかった。
 「俺、航空工学をやろうと思う」
 静かな声で告げると、全員の視線が煌生に集まった。
 その瞳に驚きも戸惑いもなかった。
 ただ、静かに頷く仲間たちの表情がそこにあった。
 真紀が涙を浮かべながら微笑む。
 「きっと、凪紗も笑ってる」
 麻友が空を指差す。
 「ほら、あの星の近くで」
 拓実は静かに拳を握った。
 拓朗は肩を叩き、「いいじゃん、それ」と短く言った。
 五人は並んで空を見上げた。
 月の横で、流れ星が一筋、夜空を走り抜けた。
 凪紗が描いた星図のどこかに、今の光は刻まれたのだろうか。
 煌生はポケットからスマホを取り出した。
 そこには、凪紗が残した心音の録音データ。
 再生ボタンを押すと、優しい鼓動が夜の静けさに溶けていった。
 「…ありがとう、凪紗」
 小さな声で呟く。
 答えは返ってこない。
 でも、その瞬間、確かに彼女の笑顔を感じた。
 夜空に五人の影が並んで揺れた。
 そこには、もう過去に囚われていた面影はなかった。
 一歩を踏み出そうとする、未来だけがあった。